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衆議院議員 小沢一郎君の通信簿

衆議院議員を評価(右をクリック) → 衆議院議員の通信簿

プロフィール

(以下、ウキペディア引用)

小沢 一郎(おざわ いちろう、1942年〈昭和17年〉5月24日 - )は、日本の政治家。立憲民主党所属の衆議院議員(18期)。


自治大臣兼国家公安委員会委員長、内閣官房副長官(政務担当)、自由民主党幹事長、新生党代表幹事、新進党幹事長、新進党党首、自由党党首、民主党代表代行、民主党代表、民主党幹事長、国民の生活が第一代表、生活の党代表、自由党共同代表などを歴任した。




党代表

ウィキニュースに関連記事があります。

民主党代表に小沢一郎氏をはじめて選出

2006年(平成18年)3月31日に前原が、「堀江メール問題」の責任を取って党代表を辞任、4月7日の民主党代表選挙で小沢は119票を獲得して菅直人を破り、第6代の民主党代表に選出された。両院議員総会の演説で小沢は、「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない」という19世紀のイタリア貴族の没落を描いた映画『山猫』の一節を引用し、その上で「まず、私自身が変わらなければなりません」と述べ、「ニュー・小沢」を印象づけた[注 5]。


代表選後、小沢は菅を党代表代行、鳩山由紀夫を党幹事長にするトロイカ体制を敷いた。また、前執行部と次の内閣メンバー全員を残留させた。小沢は政令指定都市・都道府県の首長選挙に関しては原則として相乗り禁止の方針を打ち出した。また、国会対応では前原時代の「対案路線」ではなく、「対立軸路線」で与党とは対決姿勢を鮮明にした。


4月23日、メール問題での逆風下にあった衆議院千葉7区補欠選挙で、僅差ながら勝利した。半年後の9月12日の民主党代表選に小沢は無投票で再選した。9月25日、臨時党大会で正式に代表に再任した。その後、狭心症の発作の兆候を感じたため、都内の病院に検査入院した。10月5日に退院し、自身の動脈硬化が進んでいることを明らかにした。


統一地方選、参院選での躍進

2007年(平成19年)4月8日に統一地方選挙(前半)が行われ、地元・岩手県の知事選挙で小沢チルドレンの代表格である達増拓也が当選。岩手県議会議員選挙でも、議席を増やし第1党を維持し、その他の道府県議選・政令市議選でも民主党は230議席(合併前の自由党含む)から145議席増え375議席に躍進した。


4月22日に行われた統一地方選挙(後半)では、市町村議会選挙で、自民党が過去最低議席数になった他、他党が前回議席を割り込む中、民主党は3割近く議席を伸ばした。


7月29日に行われた、第21回参議院選挙で民主党は60議席を獲得、参議院第1党となり、野党全体(共産党を含む)で過半数を得た。選挙開票当日は「医者からの忠告」を理由に休養を取っていたとし、小沢はマスコミの前に姿を見せなかったが、7月31日の党常任幹事会に多くの報道陣が駆けつける中で出席、小沢は公約通り衆議院議員を今後も続けるとした。また、8月に前代表・前原、元代表・岡田等が党副代表に就任し、挙党体制を構築した。


ねじれ国会


2009年5月12日、ロシア首相ウラジーミル・プーチン(右)と

この参議院選挙の結果を受けて、国会は野党である民主党が参議院の議事の主導権を握るねじれ国会の状態となった。


8月8日には、11月に期限切れとなるテロ対策特別措置法(テロ特措法)問題について小沢は、アフガン戦争が国際社会のコンセンサスを得ていないとして海上自衛隊の支援活動は認められないと主張し、反対の意向を示した[24]。首相の安倍晋三は事態を打開すべく、小沢との直接会談を検討したが実現せず、自身の体調の悪化などもあり、9月12日に辞任を表明した。結局、テロ特措法は安倍内閣総辞職の影響もあり、期限の延長ができずに失効した。


安倍の後任を決める内閣総理大臣指名選挙が9月25日に行われ、参議院で決選投票の末に福田康夫(自民党総裁)を抑えて、小沢が指名された(小沢133票、福田106票)。衆議院で指名された福田が衆議院の優越規定に基づき首相となった。なお、両院の指名が異なったのは小渕恵三内閣下で民主党の菅直人が指名されて以来、9年ぶり4度目であった。


2007年11月2日、小沢は福田と会談し、連立政権について提案があったため、意見を党に持ち帰り臨時役員会に諮ったが、民主党内の反対を受け連立を拒否した。11月4日、連立騒動の責任を取り代表辞任を表明したが、民主党内の慰留を受け11月6日代表続投を表明、11月7日の両院議員懇談会で代表続投が承認された(詳細は大連立構想 (日本 2007) を参照)。


その後、テロ特措法の後継の法律として衆議院に提出されていたテロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法案(新テロ特措法)に対する議決が行われ、11月13日に衆議院本会議で可決、2008年(平成20年)1月11日、民主党が多数を占める午前の参議院本会議では反対多数で否決され衆議院に返付されたが、午後の衆議院本会議で与党の3分の2以上の賛成多数で再び可決・成立した。


続く2008年1月18日に召集された第169回国会は、ガソリン税等の暫定税率の10年間の延長を訴える与党と、暫定税率廃止を主張する野党が真っ向から対立し、ガソリン国会とも呼ばれた。2月29日、衆議院で2008年度予算案が野党3党の欠席の中で強行採決された。小沢はこれに対し「信頼関係が完全に崩壊した」と与党を批判し[25]、共産党を除く野党は予算委員会を欠席して国会は空転した。日本銀行総裁人事でも財務省、大蔵省の事務次官経験者である武藤敏郎・田波耕治の総裁就任が相次いで参議院で不同意となり、結果として白川方明が総裁に就任した。ガソリンなどの暫定税率はこれらの影響で、3月中に延長法案の参議院での採決が出来ず、4月1日で自動車重量税を除く暫定税率が一旦廃止されたのち、衆議院の再可決により1カ月後に復活する事態となった。


2008年9月22日、民主党代表選に小沢は無投票で3選した。


2009年(平成21年)5月11日、西松建設疑惑関連で公設秘書が逮捕されたことを受けて、民主党代表の辞任を表明[26]。自身の後継を決める代表選挙では、側近として共にトロイカ体制を支えた鳩山由紀夫を支持した。


党代表代行から幹事長へ


2009年(平成21年)8月30日、ラフォーレ六本木の民主党開票センターにて民主党代表の鳩山由紀夫(左)と小沢(右)

5月17日、後継の代表となった鳩山由紀夫の要請を受け、選挙担当の代表代行に就任した。菅直人が代行が多くなったことから小沢に筆頭となるよう要請し、3名の代表代行の中では筆頭扱いとなった。代表代行への就任は5年ぶりとなる[27][28][29]。第45回衆議院選挙に向けては、小沢は一時公明党代表(当時)の太田昭宏が地盤としている東京12区への国替え立候補を検討。しかし、小沢の代表辞任で効果が薄れたことや、同年の都議選で民主党が圧勝し、「小沢でなくても勝てる」との判断が働いたことから、解散後の8月3日に従来通り岩手4区で立候補することが決まった[30][31]。衆院選では自民党が刺客として擁立した元小沢側近の高橋嘉信らを大差で破り、14選。この時、最多当選回数を渡部恒三(民主・福島4区)、羽田孜(民主・長野3区)、森喜朗(自民・石川2区)らと共に記録した。


衆院選で政権交代を果たした後の9月3日には、鳩山が小沢に幹事長就任を要請し、受け入れる意向を表明した。小沢の幹事長就任については、鳩山の掲げる「政策決定の内閣への一元化」に反して政府と与党の「権力の二重構造」となり、政策面で小沢の影響を排除できなくなるとの見方が出たが、これについて鳩山は「幹事長は党務だ。政策の決定は政府でやると確認した」と述べた[32][33][34]。


2009年(平成21年)9月15日の民主党両院議員総会において、小沢は正式に幹事長に就任した[35]。


2010年(平成22年)1月、東京地検特捜部は政治資金規正法違反容疑で、小沢の秘書を務めた石川知裕衆議院議員や小沢一郎の秘書である大久保隆規とほか1人を逮捕し、2月に3人を起訴した。起訴状では20億円を超す虚偽記載であり、政治資金規正法の虚偽記載罪では過去最大の金額となった。一方で小沢は嫌疑不十分、不起訴処分となった。以降9月までに小沢の起訴相当議決と不起訴処分を2度繰り返す。


6月1日、鳩山由紀夫と進退を協議する場において、辞意を表明した鳩山に共に幹事長を辞するよう促され、翌6月2日に幹事長を辞任する意向を表明した[36]。


党代表選再立候補

鳩山の後継として民主党の代表、総理大臣に就任した菅直人は、小沢・鳩山代表時代のマニフェストの見直しや小沢と距離を置く議員の要職での起用など、「脱小沢」路線に舵を切った。しかし、2010年(平成22年)7月11日の第22回参議院選挙で民主党は現有議席を割り込む敗北を喫し、来たる民主党代表選挙にて、菅の対抗馬として小沢を擁立すべきとの声が党内の一部で上がった。


途中で現職の菅直人に候補を一本化するなどの動きもあったが、小沢は最終的に出馬を決断し、現職の総理大臣である菅直人と一騎討ちで対決、党内を完全に二分する大激戦となった。鳩山由紀夫、羽田孜が小沢支持を打ち出す一方、かつて小沢の盟友と呼ばれた石井一、渡部恒三が菅支持に回った(参議院議長の西岡武夫は民主党籍が残っていたが、完全中立、棄権に回ることを表明した)。


結果は党員・サポーター票で大差をつけられたことや、小沢支持を表明した羽田グループや鳩山グループの造反などが響いて敗北したが、国会議員票では菅と拮抗する支持を得るなど、引き続き党内で一定の影響力を保持し続けるとの見方もあった。実際、小沢自由党は民主党と合併しなければ衆議院でも1桁政党になると囁かれていたが、合併によって民主党内に小沢チルドレンと呼ばれる若手を中心に確固とした基盤を築いていた。


詳細は「小沢グループ」を参照

党員資格停止と離党

2010年10月に陸山会事件で検察審査会によって起訴議決され、2011年(平成23年)1月に強制起訴された。


2011年2月22日、小沢一郎が刑事被告人になったことを受けて民主党常任幹事会が提起した「強制起訴による裁判の判決確定まで党員資格停止」とする処分を、民主党倫理委員会は小沢からの弁明を聴取し、その処分は追認する手続きを経て、民主党常任幹事会はその処分を決定した[37]。


3月1日に小沢は、「通常の起訴とは異なる」などとして党員資格停止処分を不服とし、民主党常任幹事会に申し立てたが、7月に民主党倫理委員会に却下処分が民主党常任幹事会で了承され、党員資格停止処分が決定した。このため、小沢は代表選の立候補資格および投票権を失った。


2011年3月11日に東北地方太平洋沖地震が発生した際には、地元である岩手県が被災したと知り「今からでもいい。一刻も早く飛んでいきたい」と述べ[38]、即座に現地入りを検討した。しかし救護活動の真っ最中に現地入りすれば、警護などで被災者に迷惑をかけることが懸念されたため断念した[38][注 6]。代わりに、岩手県知事ら地元の地方公共団体の職員らに連絡を取り合うなど連携し、その情報を中央省庁など政府関係者に伝え調整を図るなど、政府と自治体との調整役として活動する[38]。2011年3月28日、震災後初めて岩手県を訪問し、山田正彦ら同席のもと[40]、岩手県庁にて岩手県知事の達増拓也と会談した[40]。達増に対して、小沢は「(国が)莫大な予算を投じないと復興できない」[40]と主張するなど、復興に対して国の支援の必要性を力説するとともに、自ら政府に対して支援を働きかける考えを示した[40]。


2011年5月には、東日本大震災や福島第一原子力発電所事故に対する菅政権の対応を不満として、鳩山由紀夫らとともに自民党など野党が提出した内閣不信任案に賛成する意向を示し、小沢一郎事務所に小沢を支持する国会議員71人が集まるなど倒閣の動き(菅おろし)を活発化させた。なお、内閣不信任案に対しては菅から「辞任の言質」を取ったことを理由に小沢自身は欠席を決め、小沢グループとしては自主投票とすることとなった。この行動により、再び民主党執行部から3カ月の党員資格停止の処分を受けている。


2011年8月の菅退陣に伴う民主党代表選挙では、各候補者が投票権のない小沢に支援を要請、「小沢詣で」と大きく注目された。その際、次期代表による処分の扱いも争点となった。2009年衆議院選挙の公約の修正反対の立場から、鳩山由紀夫と連携を取りながら小沢グループとして海江田万里を支援したが、海江田は決選投票で野田佳彦に敗れ、小沢の党内における求心力低下が指摘された[41]。2011年8月30日の衆議院の内閣総理大臣指名選挙では、刑事被告人ながら1票を獲得した[42]。


9月10日、日本大学理事会において、古賀誠の後任として日本大学理事に選任される[43]。


2012年(平成24年)1月3日、震災の被害が大きかった岩手県の沿岸部を訪れた[44]。


2012年4月、東京地方裁判所の第一審で陸山会事件に関する無罪の判決が言い渡された[45]。


2012年3月31日、消費税増税法案が閣議決定されたことについて「増税の前にやるべきことがある」と批判した[46]。衆議院本会議における社会保障・税一体改革関連法案の採決では、反対票を投じた[47]。


同年7月2日、上記の理由により、同調する議員50人と民主党に離党届を提出した[48]。翌3日、民主党は社会保障・税一体改革関連法案採決での反対及び離党届提出が反党行為に当たるとし、小沢ら37人を除籍処分とする方針を決定した[49][50]。最終的に、同月9日に開催された臨時常任理事会で、衆議院で消費税増税法案に反対した小沢を含む、37人の議員の除籍処分が原案通りに確定した[51]。


「三党合意#その後」も参照

民主党離党後

2012年(平成24年)7月11日、小沢はグループ議員とともに新党・国民の生活が第一を結党し、代表に就任した。新党の綱領は「自立と共生」で脱原発と反増税を掲げる。一方で、それまで一貫して小沢と行動を共にしてきた岩手の地方議員及び後援団体の大規模な離脱が表面化した。


同年11月12日、東京高等裁判所で一審を支持、同月19日に上告が断念されたことで、陸山会事件における小沢の無罪が確定した[52][45]。


11月、国民の生活が第一を解党し、日本未来の党へ合流した上で自身は党職に就かないことを表明した。


直後の第46回衆議院選挙において、日本未来の党は61議席から9議席と大幅に議席を減らした。小沢は小選挙区のみで出馬し当選し15選。最多当選回数タイで初当選が同期の渡部恒三(福島4区)、羽田孜(長野3区)、森喜朗(石川2区)が政界を引退したために、2021年の第49回衆議院選挙に至るまで単独で最多当選回数を記録し続けることになる。しかし、この選挙においては岩手にある4区のうち、未来が議席を獲得したのは小沢の4区のみであった。小選挙区制度導入以降、2区を除いてすべての選挙区を一貫して小沢の所属政党の候補者が当選してきた中で、初めて小沢の地元での影響力の衰えが指摘された選挙となった。


12月、総選挙の惨敗を受けて、小沢系議員と未来の党代表の嘉田由紀子らとの対立が表面化した。嘉田らが離党する形となり、残留した小沢らは党名を生活の党に改称し、側近の森裕子が代表に就任した。


2013年(平成25年)1月25日、森裕子に代わって小沢が生活の党代表に就任した。同年7月21日に行われた第23回参議院選挙において、森裕子を始め公認した全員が落選し、さらに地元である岩手県では小沢と袂を分かった平野達男が当選した。


山本太郎と合流

2014年12月に施行された第47回衆議院議員総選挙の結果、生活の党は政党要件を失った。しかし、12月26日に無所属の参議院議員山本太郎が入党し、政党要件を満たした。また、党名を「生活の党と山本太郎となかまたち」に改めた[53][54]。


維新の党乗っ取り未遂騒動

2015年下半期頃に維新の党が東京組と大阪組に分裂した原因は表向きは柿沢幹事長の解任騒動である。しかし、水面下では橋下派が党代表選で主導権を握るべく党員も議員も一人一票とする方針を決めたところ、これに小沢が目をつけ、民主党など野党との共闘路線を説く松野を再選させるべく生活の党や維新の党内の小沢系議員に維新の党の党員集めを指示した。小沢に近い議員や側近の松木謙公幹事長代行が1人で約1万人の党員を集めたほか、松野は約3000人、牧義夫国対委員長は約1000人を確保したとされる。これらの動きを察知した橋下は代表選で負ける前に先手を打つ形で党を割ることを決断したと産経新聞の政治部編集委員は分析している[55]。


自由党改称

2016年10月12日、記者会見で政党名を生活の党と山本太郎となかまたちから自由党に変更することを発表した[56]。2017年の第48回衆議院議員総選挙では自由党は公認候補を擁立せず、自身は無所属で岩手県第3区から出馬し、17選。


国民民主党に合流・野党再結集へ

2019年1月22日には国民民主党の玉木雄一郎代表と会談し、国民・自由両党を合流させる方針で一致し[57]、4月26日に正式に国民民主党に合流し、自由党を解散した[58]。小沢としてはかつて袂を分かった旧民主党の系譜上の政党に7年ぶりに所属する形となった。


翌5月、国民民主党の総合選対本部長相談役に就任[59]。同年夏の第25回参議院議員通常選挙では、街頭演説などの表立った動きは避け、水面下でのどぶ板選挙に徹した[60]。同年11月には、自由党との合流に反発して離党した黄川田徹の後任として国民民主党岩手県連の代表に就任した[61]。


2019年12月28日に在職50年を迎えた。恒例となっている在職50年特別表彰については、「在職50年といっても、政治活動を(現役で)展開している」として衆院事務局からの打診を保留した[62][63]。


2020年9月15日、立憲民主党と国民民主党の合流新党である新「立憲民主党」結党に参加。同年10月11日、立憲民主党岩手県連の結成大会が開かれ、小沢が代表に就任した[64]。


小選挙区落選・比例復活

2021年10月31日に行われた第49回衆議院総選挙において小選挙区にて自由民主党公認の藤原崇に約9千票の差をつけられて敗北。比例東北ブロックでの復活当選となった。


中選挙区制から現在の小選挙区比例代表並立制への移行を主導した実質的な張本人であり、かつて「剛腕」や「選挙の神様」と呼ばれるほどの手腕を誇っていた小沢一郎だったが、小選挙区で敗北し比例復活したことは、52年に及ぶ議員生活で初の敗北であった。


「#小沢が導入したシステム」を参照

前年に小沢の後援会会長が亡くなった事も影響したのか、選挙戦序盤から苦戦が報じられ、小沢が初当選以来と言われる初日に異例のお国入りを行うほどであった。また藤原陣営の選対本部長に自由党から出馬して民主党を経て小沢と袂をわけたかつての側近平野達男が就任しており、また前回藤原が苦戦した一関市対策に送り込まれた秘書がこちらも小沢と袂を分けた黄川田徹の秘書が送り込まれており、かつての側近や忠臣の部下達の離反も大きかった。 またかつて小沢が叩き込んだ「川上作戦」の選挙戦術を平野が藤原に叩き込み、かつての側近だけでなく自分の教えた選挙戦術に足を掬われる形となった。[65]。


同年11月8日、県全体の衆院選の結果の責任を取るとして、立憲民主党岩手県連の代表を辞任した[66]。11月30日、党代表の枝野幸男の辞任に伴う代表選挙が実施。小沢は1回目の投票、決選投票、ともに泉健太に票を投じた[67]。12月19日、立憲民主党岩手県連の最高顧問に就任した[68]。


主張

羽田、小沢派を立ち上げた時期に発表した最初の著作である「日本改造計画」では抜本的な経済規制の撤廃を主張し、グランド・キャニオンに柵が無いことを例に上げ、それが自己責任というものであるとして、戦後日本の護送船団方式から転換することを主張した。しかし、新進党党首選ではウルグアイ・ラウンド対策として3兆円の農業補助支出を公約するなど、「大きな政府」的な立場も示した。また、民主党・自由党合併以降は旧社民党議員との融合を進めた。


改憲論者であり[69]、1999年の「日本国憲法改正試案」では独自の改憲案を示していた[21]。一方、2004年に公表した現行憲法の下での国連派遣部隊構想、さらにそれを発展させ2007年10月に公表した国際安全保障政策では、現行憲法との論理的整合性を維持しながら日本の国際安全保障政策(国連中心主義)を主張している。また国連平和維持活動については、自衛隊とは別個の専業組織を設置して参加させるべきであると一貫して主張している。


国会、選挙対策

自著「日本改造計画」では、「過半数が賛成している案を、少数のダダっ子がいて、その子をなだめるために、いいなりになってすべてを変えてしまう」のは「少数者の横暴」だと述べている。小沢は「審議を十分に行えば」与党による採決も止むを得ないという立場を取った。一方、野党時代には、与党が議員数の多さを背景に強行採決した場合には徹底抗戦や審議拒否も辞さない戦う野党の姿勢も示した。ただし、この姿勢は審議拒否をたびたび行うことで「充分な審議を放棄した」「与党案の成立を手助けしている」との批判を生むことがあった。


小沢はドブ板選挙を重視しており、自身に近い若手議員に対して「国会に居てもしょうがない[70][71]」「党政策調査会の会議に出ても有権者には評価されない。地元を回るように」と語ることもあり、国会審議や政策調査研究よりも選挙対策のほうが重要であるとの見解を示している[72]。小沢自身も頻繁に国会を欠席していると指摘されている[73]。 だが前述のように第49回衆議院選挙にてかつて小沢の元にいた側近や忠臣が相手の藤原崇の陣営につき藤原陣営にドブ板選挙戦術をやられて自身初の敗北となった。


2016年1月に安倍内閣の甘利明が届け出の必要のない20万円以下のパーティー券を大量に買わせていた報道を受け辞任した問題について、小沢は「政治資金の流れは1円単位までオープンにすれば、いいのです。どこから献金をもらおうが、どこに使おうが、それを判断するのは国民なのだから、オープンにすればいい。それが私の政治資金規正法の考え方です。収支がはっきり、国民にわかるように透明化することが重要だということです」と述べた[74]。


改憲論(創憲論)

「憲法改正試案」では以下のように述べている[21]。その一方、日本国内で展開している護憲運動である「憲法9条にノーベル平和賞を」について、外国からの支援を取り付けるために、2014年9月、韓国でイ・ブヨン元・開かれたウリ党議長に対して受賞実現のための韓国内での署名運動の実施を使嗾している[75]。


憲法無効論

サンフランシスコ講和条約で独立国として承認されたことを契機に、占領下に制定された憲法は無効であると宣言した佐々木惣一や大石義雄と同様に新しい憲法を制定すべきであったと主張している。護憲派学者宮澤俊義の主張に反対し憲法改正論議を支援している。

参議院改革論

衆議院と参議院がほぼ同等の権限をもっており、共に選挙によって選ばれることになっているので必然的に参議院まで政党化し、本来の二院制度の機能分担が停止していることを挙げ、参議院についてはイギリスのような「権力なき貴族院」の導入を志向する。この場合の「貴族院」議員は選挙によって選出されるのではなく、諸分野における業績のある人物に対して一代限りの爵位や栄典を与え、また衆議院議員を一定期間務めた者も終身の貴族院議員とし、彼ら(小沢自身も含む)による大所高所からの議論を期待するという[76]。

憲法裁判所の創設

裁判の進行が遅いことを例に挙げ、訴訟法を改正し、ドイツ・フランス・イタリアなどに導入されている憲法訴訟だけを扱う一審制の裁判所新設を主張する。人選は国会あるいは内閣が指名し、私学助成金記載部分の第89条を改正し、地方分権基本法を制定して、東京一極集中を分散させるとしている。

憲法無効論(自主憲法論)を主張しているため、日本国憲法の改正規定による改憲を主張しているわけではなく、民主党の党是である創憲を主張している。

こうした考えは今でも大筋では変わっていない。2017年にも日本国憲法について「法律論から言えば無効です。民法にも、強制下で結んだ契約は無効だとはっきり書いてある。これは万国共通の考え方だ。」との認識を前提にしたうえで安倍内閣による改憲については「悪い子供が権力をおもちゃに使って改憲の火遊びをしているから日本の前途が不安になる」と評価している[77]。


皇室

2009年(平成21年)12月12日韓国ソウルの国民大学校での講演で、現在の中国東北部の騎馬民族が朝鮮半島において土着化した後、日本に渡り、大和朝廷を作った」という江上波夫の主張(騎馬民族征服王朝説[注 7])を紹介し[79]、皇室について、朝鮮半島南部の権力者が海を渡って奈良で政権を樹立したとの説を披露し、「日本の歴史専門家に江上先生という方がおられます。この先生は日本国家の起源について騎馬民族征服説を強く主張された方でもあります。江上先生の説によれば朝鮮半島南部、今の韓国に該当しますが、この地域の権力者が多分海を渡って九州地域に到着し、三重県に定着してから、今の奈良県に入って奈良盆地で政権を樹立しました。これは日本の神話にも出てきますが、まさに神武天皇の東征という初代天皇の話ですが、江上先生はそのような説を主に主張されたんです」「さらに強く話してしまえば私は日本に帰れないかも知れないので、ここではこの程度にしておきます。多分歴史的な事実であろうかと思っています」などと述べ、天皇の訪韓については「韓国民が受け入れて歓迎すれば可能である」と語った[80][81][82]。ただし、日本政府は2009年9月に李明博大統領に天皇訪韓を要請された際に「天皇が政治にかかわる行動はできないと憲法で規定されている」と返答している[82]。

2009年、中国共産党の次期総書記に内定していた習近平政治局常務委員(当時)が12月に訪日する際、鳩山政権と中国政府は天皇との会談を前提した。しかし、訪日の詳細な日程が決まらないため、皇室への国事行為の依頼は1か月以上前に行うという慣行(いわゆる「1か月ルール」)に間に合わず、外務省や宮内庁も困窮する事態となった。中国政府は天皇の健康問題もあるためやむなしという方向に傾き、民主党内でも無理筋との雰囲気が大勢を占め始めた中で、12月10日から国会議員だけで143人(総勢600人超)の訪中団を率いて訪中する予定だった小沢は[83]、12月8日になってから、首相であった鳩山に「会見はやらないとだめだ」、「何をやっとるのか」、「ゴチャゴチャやっとらんで早くせい」と電話で伝えたとされる[84][85]。抗弁した羽毛田信吾宮内庁長官に対しては、「公務員の立場で内閣に反対するならば辞表を出してから意見を言うべきである」旨を述べた[86]。この小沢による要請に対しては、宮内庁、与野党、マスコミから「天皇の政治利用」との批判が寄せられた[87]。また、同年同月の天皇誕生日には事前に小沢の邸宅を下調べした右翼が小沢邸に大挙して押し寄せ、年が明けても列を成した街宣車による抗議が続いた[88]。この街宣抗議はすさまじく、夫人が家を出て行くきっかけとなったと言われる。

詳細は「天皇特例会見」を参照

2014年2月11日、建国記念の日にちなみ日韓関係に言及して、天皇が語ったとの根拠で「桓武天皇のお后は朝鮮半島の百済の王女様とのことだ」との発言した。しかし、天皇の発言は「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されている」であり、后については語っていない[89]。

憲法解釈

内閣法制局の廃止

2003年には内閣法制局廃止法案を提出[90]。内閣法制局について「憲法解釈を確立する権限はない。その任にあるのは内閣だ」としており、2009年(平成21年)には、次期通常国会で国会法の改正を行い、内閣法制局長官の国会答弁を認めないものとするとしている[90][91]。朝日新聞などからは「官僚批判の名を借りて、憲法の解釈を変えてしまおうという思惑では」「法の番人」封じではないかとの危惧がなされている[90]。

憲法9条

「専守防衛」に徹し、憲法前文の平和主義と憲法9条の第1項と第2項は保持。第9.5条として平和のための国際協力と国連待機軍の設置を付加。自衛隊は国防に専念させる。なお、自衛権は、個別的であれ集団的であれ、我が国が急迫不正の侵害を受けた場合に限って行使。急迫不正の定義は明確にしない。

自衛隊の海外派遣

小沢は国際治安支援部隊に対しては容認しており、ダルフール紛争への部隊の参加、国際治安支援部隊(ISAF)への参加など国連中心主義(憲法は国連より下位に位置)を強調した。ただし、その際の武器の使用基準見直しについては明言していなかった。なお政府は、ISAF本体への護衛参加については、合憲であるとの見解をまとめている[92]。

集団的自衛権と集団安全保障

イラク戦争型 (集団的自衛権の行使)‐ 他国が自衛権を発動して開始した戦争に参戦する有志連合国軍(OEF)への参加は憲法違反だとし、テロ対策特別措置法の延長にも反対した。

横田喜三郎の憲法解釈[93]と積極的・能動的平和主義の観点[94]から湾岸戦争型多国籍軍(集団安全保障に基づく武力行使)、国連が承認した国連軍の参加には賛成。

天皇

1999年当時の論文[21]において、天皇を国家元首として明記すべきとの主張 に対し、現憲法の文章のままでも「国家元首が天皇であることは疑うべくもない」「天皇は国家元首と位置づけられている」と述べている。

天皇特例会見問題について、2009年12月14日の記者会見で記者の質問に対し「君も少し憲法をもう一度読み直しなさい、天皇陛下の国事行為・行動は国民の代表である内閣・政府の助言と承認で行う事なんですよ」という表現を行った[95]が、15日に共産党の志位和夫委員長から記者団に対し「憲法で定める天皇の国事行為の中に、外国の要人と会う事は含まれていません。小沢さんこそ憲法をよく読むべきだ」と反論される[96]。

外交、防衛政策

基本姿勢

世界各国、特に中国、韓国をはじめアジア諸国と平和で自由で開かれた信頼関係の実現を主張した。具体的には、アジア外交の強化、貿易・投資の自由化、政府開発援助(ODA)の抜本的見直し等。2009年(平成21年)2月24日には「米国もこの時代に前線に部隊を置いておく意味はあまりない。軍事戦略的に米国の極東におけるプレゼンスは第7艦隊で十分だ…あとは日本が自らの安全保障と極東での役割をしっかり担っていくことで話がつくと思う…米国に唯々諾々と従うのではなく、私たちもきちんとした世界戦略を持ち、少なくとも日本に関係する事柄についてはもっと役割を分担すべきだ。そうすれば米国の役割は減る」と述べた[97]。

2009年12月、国会会期中に国会議員143名を含む民主党員626名を引率して訪中した。

沖縄米軍

2010年(平成22年)9月3日、沖縄について「海兵隊の実戦部隊はいらない」と発言し、防衛省のみならず民主党内からも、台湾や朝鮮半島有事に対応できない、「(日米合意の見直しと)疑念を持たれる可能性がある」と批判された[98]。

A級戦犯、BC級戦犯、靖国神社

1986年4月2日の国会答弁では「誰もが自然の気持ちで行くべきであると思う。私もそのような自分の気持ちが沸いてきた時今までも参拝してきたしするつもりである」、「国務大臣であろうがなかろうが今後も行きたい」、「A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではない」、「たまたま敗戦によって戦勝国から戦犯とされた人もいる」などの発言があった。

また、2008年2月21日の朝鮮日報からのインタビューでは、「靖国神社問題は日本側が大きな間違いをしている。民主党が政権を取ったら、戦争責任者を靖国神社から分祀し、韓国と中国に強力な信頼関係を築く」と述べた。

核武装

日本には数千発の核兵器を製造する能力がある(2002年)ものの、軍事的、政治的にも何のプラスにもならない。議論もしてはいけない(2006年)。党内には、核保有を認める意見や核武装を議論すべきとの意見があった。

周辺事態法について

2006年10月に北朝鮮が核実験を行った後の朝鮮半島情勢は「周辺事態法」を適用できるかどうかを巡り、「周辺事態法は適用できない」とする小沢らトロイカ体制の見解を発表した。しかし、これに対して前原誠司を始めとする党内から「周辺事態法は適用できる」とする意見表明が行われ、また民主党の外交・防衛部門は、「小沢代表らトロイカ体制の見解は民主党の公式見解ではない」と発表し、安全保障政策をめぐる民主党内の対立・不一致が表面化した。

北朝鮮拉致について

「拉致問題は北朝鮮に何を言っても解決しない。カネをいっぱい持っていき、『何人かください』って言うしかないだろ」と述べたと報道された[99]。

領土問題

「われわれが与党になったら領土問題にケリをつける」「例えば、尖閣諸島は歴史的に見ても日本の固有の領土だ。それを明確にさせる。自公政権のように弥縫策で先送りすることはしない」と述べ、領土問題の速やかな解決を宣言している[100]。また、2008年7月15日には、 記者会見で学習指導要領の竹島問題について問われ、「教科書云々の前に日韓の考え方の差を埋めるために、しっかり話し合いをすべきだ。話し合いを避けて教科書に載せる載せないの類は順序が違う。事実上韓国が実力支配しているわけですから、それを放置しておいて俺の領土だと言ってもどうしようもないでしょう」と日本政府を批判した[101]。

チベットと中華人民共和国

2008年のチベット騒乱の後、2008年4月17日の講演で、チベット問題について「中国の政権が抱える矛盾が民族問題を契機として持ち上がった。共産主義独裁の政権と政治の自由は、原理からいって成り立たない」と発言し、「共産党政権が時代の変化に応じて生き延びようとするなら、自分自身が変化しなければいけない」と中国を批判した[102]。

防衛庁の省への昇格

防衛庁の「省」昇格に対し、自由党時代から防衛庁の省への昇格を主張していた小沢は「国防の任に当たる省庁が内閣府の一外局でしかない状態は良いことではない」と述べた。ただし、民主党内に反対の声があったため衆議院安全保障委員会での防衛「省」昇格関連法案の審議は欠席した。

法務

憲法改正(憲法96条)の為の国民投票法案

与党提出の法案に反対した。その後民主党案との修正協議を経て修正与党案が成立した。なお社民・共産は法案そのものに反対した。

国民投票法案については日本国憲法の改正手続に関する法律を参照

司法

自身の長年にわたる政治資金規正法違反事件(後述)を扱っている検察審査会について、「素人が判断できるようなことなのか」と、制度改変を迫る姿勢を示している[103]。

民法

選択的夫婦別姓制度導入について、福島瑞穂の質問に対し、「基本的に賛成である」と述べた[104]。一方、2014年の朝日新聞による調査では、「どちらとも言えない」としていた[105]が、2017年の同調査では、「どちらかといえば賛成」としている[106]。

選挙制度

小選挙区制

「#小沢が導入したシステム」を参照

永住外国人の地方参政権

旧植民地政策により日本に移住、戦後そのまま在住した永住外国人・その家族が日本国籍を獲得しにくい場合でも、その歴史的事情を勘案し、また地域の住民との連帯感を醸成するために地方参政権を与えるべきと主張している[107]。外国人参政権の獲得を目的に在日本大韓民国民団から支援の言葉を貰い、小沢もそれに謝意を表明し「帰化した韓国系」の投票を期待しているとの発言をしている[108]。

経済、財政政策

『日本改造計画』で小さな政府路線を標榜し90年代以降の新自由主義的な構造改革の先駆け。しかし民主党代表となってからはその路線を急転させ、「行き過ぎた市場主義」の修正と「国民の生活が第一」というスローガンを前面に打ち出した。


2010年の民主党代表選挙を控えた9月1日には、国有財産を資産担保証券化すれば日本はまだまだ200兆円ぐらいの国債を発行できると主張し[109]、同日夜のNHK ニュースウオッチ9に出演した際には、MCの大越健介のインタビューに「200兆円の資産担保証券では毎年数兆円の金利収入が国庫に入ってくるっちゅう試算もある」との踏み込んだ発言を行った。しかし、それはデフォルトとなった場合に国有財産が差し押えられることを意味する上に、資産を担保にしても金利は証券を発行した側(実質的に政府)が支払うことに変わりはなく、小沢が何を意味して言ったものか理解困難だったためマスコミには総じて無視された[109](海江田万里が小沢案を支持しており、元々が海江田のアドバイスとも言われている[110])。


税制

消費税、年金制度改革

『日本改造計画』では消費税の10%への引き上げと所得税の半減が持論で、細川政権でも国民福祉税構想をぶち上げたが、新進党時代の後半からは消費税論議を封印した。

年金の特定財源化を行い、すべての年金を一元化する。1人月額6万円を支給する基礎年金と従来の社会保険料方式を維持した所得比例年金の2階建て。消費税は5%に維持するが、その税収はすべて全額を福祉目的化し、基礎年金に割り当てる。しかし、消費税5%分(約13兆円)だけでは年金の基礎部分を賄えないため、必要な財源は既存予算から捻出するように努力する。13兆円では、国民の半数にしか年金が支給できないとの批判があったが、「給付する人を低所得者に限るため、13兆円で足りる」と反論した。

暫定税率

民主党による政権交代前は道路特定財源の一般財源化を行い、揮発油税(ガソリン税)の暫定税率を廃止すると主張していた。2008年3月28日にはこれに関して「暫定税率を延長する必要はなく、国民生活のために還元をしたほうが良い」と主張した[111]。廃止に伴う地方財政への影響に関しては、道路特定財源の内で地方へ行くと予定されているのは9000億円であるが、そのうち市町村分の3000億円には手当てが必要であるとの見解を示し、その手当てを一般会計・特別会計の余剰金の利用や無駄の削減で市町村分へ配分することは可能だとした[112]。

しかし、政権交代後の2009年には、党に寄せられた陳情を踏まえ、政府の2010年度予算への反映を求める「重点要望」の中で衆院選マニフェストで廃止を掲げたガソリン税などの暫定税率は「維持する」と転換し[113]、菅政権以降、社会保障・税一体改革などでマニフェスト遵守を訴える姿勢と矛盾しているとの批判を受けることもある[114]。

貿易・通商

徹底した自由貿易論者であり、「北東アジアから東南アジア、最終的には全世界まで広げたフリートレード(自由貿易)を実現する」ことが夢であると明言している[115]。


環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)

環太平洋戦略的経済連携協定については、慎重な姿勢をとっている。記者会見にて「自由貿易には賛成だが、弱い産業部門は突然、『関税撤廃だ、自由競争だ』となったら成り立たなくなる。国民生活を守る対策が取られないうちにやるのは早計だ」[116]と発言し、拙速な参加に懸念を表明している。また、環太平洋戦略的経済連携協定の適用分野が広範囲に及ぶことに言及し「TPP(に参加した場合の影響)は農林水産業の話だけではない。むしろ(米国などの)メーンの狙いは他の分野にある」[117]と指摘するなど、農林水産業以外にも影響が及ぶとしている。2011年(平成23年)10月20日には、民主党の執行部役員である三井辨雄・鈴木克昌らに対して、環太平洋戦略的経済連携協定への参加交渉について慎重な対応をとるよう要請した[118][119]。野田佳彦が環太平洋戦略的経済連携協定の交渉参加を表明した際には、「国内の体制がきちんと整備できるのか」[120]「対等な交渉をして国民の利益を守れるのだろうか」[120]などの疑問を口にしている。

2011年10月、『朝日新聞』が「小沢氏、TPPに前向き」[121]との見出しを掲げるなど、一部報道機関にて小沢が環太平洋戦略的経済連携協定に積極的だと報じられた際には、小沢事務所側がTwitterにて「一部紙面等で『TPPについて「小沢氏前向き」』と報じられておりますが、それは誤りです」[122]と投稿し、一連の報道を否定する一幕もあった。

行政改革

地方分権

中央集権体制から地方主権体制への移行を主張し、市町村の300程度への集約による地方分権を提言している。中央政府の権限は外交・治安などに限定し、個別補助金は官僚支配を生み利権の温床となるため廃止し、自主財源として一括交付し財源・権限を地方に移譲することが地域経済の活性化につながるとしている。[要出典]

公務員改革

幹部職員の内閣一元管理し、公務員に対しては、スト権の付与と守秘義務違反の軽減と政官接触を自由化するとし、特殊法人、独立行政法人、特別会計の見直しを主張している。[要出典]

福祉・労働政策

格差是正

社会的格差を是正する。子育て支援をし、親と同居している世帯に対して「親手当」、子供がいる世帯に対して「子ども手当」を交付する。管理職は自由競争だが、非管理職は終身雇用にする[注 8]。労働法は長期安定雇用を基本とするべき。挫折した経営者・労働者の再起、再就職の支援制度を拡充する。

移民政策

自民党と財界一部に「移民受け入れ」を検討する動きがある事を受け、「まったくダメだ。現在でも『奴隷労働』と言われる非正規労働者の問題が深刻なのに。発展途上国から単純労働者を受け入れることは、一種の奴隷制度ではないか。治安問題を心配する声もあるが、それ以前に、そういう形での移民受け入れは人間の尊厳に対する冒涜であり、人道的にとても認められない。」と述べ、与党の移民政策を批判した[100]。

原発・エネルギー政策

民主党代表在任時

小沢が2006年に民主党代表に就任した後、原子力発電を「過渡的エネルギー」と結党以来から位置づけていた同党のエネルギー政策が転換し、恒久的エネルギーとして原発を積極的に推進するという見解に修正された[123][124]。

福島第一原子力発電所事故に関して

福島第一原子力発電所事故発生後の2011年4月30日夜、十数人の国会議員と港区赤坂の南欧料理店で会食した際、「福島第一原発は安定していない。爆発しないようにしているだけで放射線を垂れ流している。根本的な対策を取らなければ大変なことになる。決死隊を送り込んで完全に抑え込まなければならない。政治が決断することだ[125]」との自論を述べた。その一方で同年5月6日午前には外房の漁業の風評被害解消を目的として、側近議員と一緒に千葉県いすみ市沖でアジやイサキを釣り、それを刺身にして食べて魚の安全をアピールした[126]。

民主党離党後

2012年7月の「国民の生活が第一」結党の際には、脱原発を政策の柱として掲げ、10年後をめどに原発の全廃を目指すとした[127]。

教育政策

与党案とは異なる民主党独自の「教育基本法」の制定。教育予算は先進国中低位の現状を是正し引き上げる。5歳から高校まで義務教育を広げる。すべての国民に高等教育の機会を与えるため、奨学金制度を拡充する。教師などの教育職員は国家公務員として身分を安定させ、争議権を認めない。


農業政策

基本的に自由貿易推進の立場でありFTA(自由貿易協定)推進。わが国の安全保障を確保するためには現在39%[128]に低下している食料自給率を他の先進国並みに高める。農家、農村の活力を再生するために、穀物などの主要農産物について戸別所得補償制度を導入する。トレーサビリティ制度の拡充と加工食品の原材料も含めた原産地表示の義務づけを行い、食の安全を確保する。


他党、支持母体との関係

選挙協力

思想的には保守であるが[要出典]、自公政権打倒のためには共産党を含めた全野党による選挙協力も辞さないことを表明した[129]。社会党の社公民路線以来、「非自民・非共産」として、共産外しが常態となっていた野党第1党の代表としては異例の見解であった。そのため、自公からはもちろん、党内の反共主義者からの批判が見られた。共産党は現時点では「市場主義重視」の民主党の「第三の道」路線に対して自公共々批判的であるため、実現しなかった。

大連立

2007年末に取り沙汰された大連立騒動(大連立構想 (日本 2007))では、民主党が政権を取る為には、自民党と連立し、連立政権の中で民主党のマニフェストを実現して、実績と政権担当能力を示す必要があると主張した。大連立構想が立ち消えになった後は自民党との対決姿勢を強め、選挙による政権交代を目指している。

小沢が導入したシステム

小沢が導入したシステム(法案等)。


小選挙区制

本人曰く、政権交代可能な二大政党制を実現するために導入した。

しかし、第49回衆議院議員総選挙では自身が小選挙区で敗北し比例復活をしてしまう事態になった。

党首討論

自由民主党幹事長時代に尽力。法案を通した。

記者クラブ制度の撤廃

一般記者会見をフリージャーナリストにも開放し、上杉隆らが自由に取材している。

このほか、政治倫理審査会も「自分が作った」と述べているとされる[130]。


小沢グループ

「小沢グループ」を参照

人物像

人物評

結党に関与した政党が解党や分裂することが多く、「壊し屋」と評されている[131]。2012年の第46回衆議院議員総選挙直前に嘉田由紀子を党首に擁立して急きょ立ち上げた日本未来の党が内輪揉めにより、わずか1か月で 「生活の党」に衣替した件が、5回目であると報道された[131]。


梶山静六とは竹下登を担いだ仲で盟友でもあったが後に対立(一六戦争)。ただ小沢一郎本人は「私と竹下登さんの争い」と言っている。新党の結成と純化を繰り返す小沢を梶山は「非情な政治家」と突き返した[132]。池上彰によると、説明する努力に欠け、側近が離れる一因であるとも指摘されているという[133]。渡部恒三は「小沢君の周りからいつも人が離れていくのは人間性のせいだ。小沢君が「五+五=七だ」と言った時、「いいえ、五+五=十ですよ」と言い返す相手とは付き合わなくなる。ずけずけ言い返したりコントロールできるのは僕だけだった。新しい党を作る時は小沢君が必要だ。しかし党が出来ていれば小沢君は邪魔になる。その繰り返しだ」と評している[134]。小沢から離反した者として、羽田孜・杉山憲夫・熊谷弘・船田元・岡田克也・二階俊博・野田毅・扇千景・小池百合子・石破茂・西川太一郎・高橋嘉信・渡辺秀央・大江康弘・西村眞悟・藤井裕久・中塚一宏・階猛・黄川田徹・平野達男らが挙げられる。


田中秀征は、小沢一郎の口の堅さを評価していた。細川内閣の組閣名簿発表前にNHKの記者が来て、「社会党の6人の名前以外の閣僚の名前を一人でいいから教えてくれ」と頼まれる。大蔵大臣になる予定の藤井裕久が大蔵委員会の仲間で親しかった田中に、「暇になったから、昔の大蔵委員会の仲間で集まろう」と言いに来て、「この人、大蔵大臣になること知らないんだ」と驚き、小沢一郎の側近だった山口敏夫が、「松永信雄の外務大臣は絶対ダメだ」と羽田孜が就任するのを知らずに言いに来た[135]。


小沢と協力関係にあるものの、生活の党に加わらなかった(離党した)者として、河村たかし(減税日本代表、未来の党には参加)、山田正彦(みどりの風に所属、同党解党後無所属)、外山斎(河野談話撤回を主張するなど、生活の党内最右派。2012年の衆院選で鞍替え出馬するも落選)、三宅雪子(現在無所属)等がいる。


渡部恒三との関係

自民党、経世会時代の小沢一郎は渡部恒三の盟友として知られた。誕生日が同じなため、初当選以来、毎年合同で誕生会を開催することが恒例であった。自民党を離党後も行動を共にするが、新進党時代に決別した。民主党時代も同僚となった渡部に対して対立姿勢を鮮明にした。


健康

初当選直後に甲状腺癌を患ったことを明らかにしているが、手術で完治した。しかし竹下派会長代行として海部政権の実質的な実力者であった1991年夏に心臓病で入院して以来、心臓を巡る健康不安が絶えない。当時病名は狭心症と発表されたが、入院期間が42日にも及んだことから心筋梗塞だったのではという憶測もある。その後は健康管理のため、早朝に30分ほどの散歩をすることを日課とし、好んでいた煙草は一切やめ、アルコールは日本酒を3合までに控え、昼食後約2時間の休息を欠かさない[136]。ただ、こうした制限が政治活動に影響を及ぼすこともあり、批判や憶測を呼ぶこともあった。2008年10月6日から13日まで風邪で入院、同月23日に予定されていたインドのシン首相との会談を含む党役員会などの公務も体調不良ということでキャンセルし、シン首相との会談は鳩山幹事長が代理を務めた[137]。第171回国会(会期2009年1月5日 - 6月3日)では、2月末までに11回開かれた衆院本会議のうち4回欠席している[136]。


信条

田中角栄を「オヤジ」として慕い、政治のイロハと人生の薫陶を受けたと語る。それは「どぶ板」とも言われる、人口密度の低い農村部から始め有権者の家を一戸一戸回っていく地道な選挙活動を決して怠らない事をオヤジから学んだという。歴史上の人物では、福澤諭吉を日本文明の祖として尊敬し、勝海舟や坂本龍馬にも一定の理解を寄せ、西郷隆盛を尊敬するものの、政治家・人物としては大久保利通を目指していると述べた[138]。戦前歴代内閣総理大臣で尊敬する人物は原敬である。また、司馬遼太郎の小説を愛読している。漫画では弘兼憲史『加治隆介の議』やジョージ秋山『浮浪雲』のファンで、特に『浮浪雲』では「選・小沢一郎あちきの浮浪(はぐれ)雲傑作十選」という本も出版されている。


自民党離党

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小沢一郎が自民党を離党した際には、「談合政治」と言われる旧来型政治の打破と、イギリスやアメリカのような二大政党制を創りたいという明確なビジョンがあったという。小選挙区制を導入すれば同じ選挙区から自民党と社会党の政治家が選ばれるということが無くなるためであった。小沢は、自ら進んで自民党を離党したのでは無く、既得権益を持った一部の議員に追い出されたのだと述べている。当時の自民党竹下派では、国際貢献や小選挙区制度を巡り激しい対立があり、そうした政策対立ともからんだ竹下派の跡目争いで小沢・羽田グループが小渕恵三らに破れたことが、小沢の離党の背景にある。もっとも小沢自身は1993年の宮澤内閣不信任案に賛成票を投じた後も離党する気はなく、党内改革を行うつもりであったが、不信任案には反対した武村らが率先して離党したことが引き金となった。


宗教観・文明観

自民党幹事長時代、与野党逆転国会を乗り切るために公明党と協力関係を築いた。細川連立政権でも市川雄一と一・一ラインを敷き、政権運営の主導権を握ろうとした。しかし新進党時代は党に参加していた公明と対立し同党解党の原因の一つとなった。


2009年の民主党政権誕生後は、公明党・創価学会との連携を窺わせる言動をしばしばとっている。2010年(平成22年)2月26日に小沢が輿石東参議院議員会長と共に創価学会幹部と会談したことが報じられたが、3月3日の記者会見でそれを否定した。しかし、学会に対するスタンスは菅直人や仙谷由人のような創価学会批判派の急先鋒とは一線を画している[139][140]。


2009年11月10日、姫井由美子らをともなって高野山・金剛峰寺を訪問し、当時の全日本仏教会会長で高野山真言宗の松長有慶管長と会談した際、キリスト教とイスラム教が共に排他的であると断じ、「(排他的な)キリスト教を背景とした文明は、欧米社会の行き詰まっている姿そのもの」と批判すると同時に、「仏教はあらゆるものを受け入れ、みんな仏になれるという、非常に心の広い度量の大きい宗教・哲学」だと述べた[141][142][143]。


この発言に対し、日本キリスト教連合会(山北宣久委員長)は翌11月11日、発言の撤回を求めて小沢宛の抗議文を民主党本部に送付した[144]。小沢は11月16日の記者会見で「宗教論と文明論を言った」「(仏教は他の宗教と)基本的な考え方が違うということを言っている」と説明した[145]。


2010年8月、小沢は都内での公演で、アメリカ人がオバマ大統領を選出したことを賞賛する発言をしたが、その一方で、「米国人は単細胞」と述べた。この件は前述したキリスト教についての差別発言とともに、アメリカで報道された[146][147]。


囲碁

囲碁の腕前はアマ六段で、政界最強とも評されている。依田紀基の指導を受けているとされる。


政界には、小沢より高段のアマ七段をもつ与謝野馨がいる。与謝野もまた、数年前まで小沢に碁の指導をしていた(かたちを変えた師弟関係)。


小沢は、囲碁普及を目的として日本棋院週刊碁特別企画のイベントでたびたび公開対局をしている。そのイベントで2007年10月28日、ANAインターコンチネンタルホテル東京・囲碁サロン「Ranca」にて、与謝野馨と対決した[注 9]。互先コミ6目半、師与謝野が黒を握り、2時間半の激戦の末、小沢が勝負を制した[注 10]。また、12月29日、同所で開催された同イベントで作家の渡辺淳一と対決し、小差ながらも勝利した。


プロとも何度も対局している[注 11]。民主党政権奪取前は小川誠子、依田紀基ら多数。


2009年11月24日、フジテレビのイベント「お台場オトナPARK2009 - お台場碁番街」 - 台湾出身の女流本因坊、謝依旻(当時20歳)- 3子置き[注 12] - 小沢敗北 [注 13]

2009年12月12日、韓国 - 韓国囲碁界のタイトル王・曺薫鉉九段 - 4子置き - 小沢勝利

2010年1月10日 民主党青年局主催「成人の日イベント」 - 名人井山裕太(奇しくも20歳の成人) - 3子置き - ジゴ(ドロー)[148]

2014年1月16日 ニコニコ動画のイベント「ニコファーレ - 第1回囲碁電王戦」 - コンピュータ囲碁ソフト・Zen - 小沢敗北

インターネット

ニコニコ動画

ニコニコ動画などのインターネットメディアについては、好意的な発言を行っている。新聞やテレビなど既存のメディアは編集して報道する点を指摘したうえで、インターネットメディアなら生の声が国民に伝わりやすいと評価している。

2007年(平成19年)7月、第21回参議院議員通常選挙の直前にニコニコ動画へ出演し、話題となった。その後も2008年(平成20年)11月や2009年(平成21年)元旦に「1万人ネット会見」を行った。また、2008年9月から公式動画コーナー「小沢一郎チャンネル」を開設した。2010年9月には、民主党代表選挙への立候補に際して、ニコニコ動画の番組に出演した。

Twitter

Twitterには興味を示すものの、操作が難しいことを理由にしばらくはアカウントを開設していなかった。ただ、Twitterでは小沢を名乗るアカウントが後を絶たず、上杉隆らの取材により成りすましアカウントであることが明らかになっている。ニコニコ動画の番組に出演した際、上杉から成りすましが横行していると知らされ、小沢本人が苦笑する場面もあった[149]。しかしその数日後、成りすましアカウントのツイートを真に受けたTBSが小沢がTwitterを始めたと誤報してしまい、直後に謝罪する騒動も発生した[150][151]。小沢に成りすましたアカウントの中には、9000人以上のフォロワーを集めるアカウントまで出現している[152]。

また、ニコニコ動画の番組内にて、小沢は事務所スタッフにツイッターの操作を習得させることを示唆していた。2010年9月10日、Twitterに小沢一郎事務所の公式アカウントが開設された[153]。ただし、小沢個人としてのアカウントではなく、あくまで事務所のアカウントのため、小沢本人ではなく事務所のスタッフのツイートが投稿されている。同日のツイートでは「現在、小沢一郎『本人』は公式Twitterアカウントを取得しておりません。なりすましにご注意ください」[154]と呼びかけている。

報道番組

 情熱報道ライブ「ニューズ・オプエド®」(NOBORDER NEWS TOKYO)


バラエティ番組

ソレダメ!〜あなたの常識は非常識!?〜(テレビ東京)に(2017年7月5日放送分)出演しバラエティ番組初出演となった[155]。

西田敏行

西田敏行はNHK大河ドラマ・八代将軍吉宗(1995年、NHK)で徳川吉宗を演じるときに参考にしたのは当時新進党の議員だった小沢で「ぜいたくに対して税の引き締めをした吉宗と小沢さんの政策意図、政治に対する発言や新進党を作るプロセスが、権謀術数に長けていた2人の生きたさまと重なりました。吉宗は、風貌も小沢さんみたいだったのでは、と思っていたんです。肖像画が残っているのはショボショボになっちゃったおじいちゃんでしたけれど、若いときはお相撲さんと見まがわれるくらいでしたからね。がっちりした小沢さんのイメージと重なったのかもしれません。」[156]と述べている。

エピソード

田中角栄

田中角栄の長男である正法(1947年、5歳で死亡)と小沢が同じ1942年生まれであったため、田中は小沢を息子のように可愛がったとされた。それに対して小沢も角栄を慕い、田中派から独立した経世会に所属した国会議員で唯一、田中の裁判をすべて欠かさず傍聴した。同時に角栄の娘、田中眞紀子との関係もよく(眞紀子も小沢を兄のような存在だと認識している)、旧竹下派の中では唯一田中家から許されているため、命日には田中家を訪問した。そのため親交が深く眞紀子の自民党離党、民主党会派入りに小沢は尽力した。また、「政治の父は田中角栄」と公言した。

かつて田中角栄の懐刀だった小沢と福田の因縁の戦いは、「第二の角福戦争」と呼ばれた。しかし当人たちにはそのつもりが全く無く、福田を舌鋒鋭く批判する角栄の娘の田中眞紀子元外相の方が注目され、これが真の「第二の角福戦争」であるという見方もあった。

愛犬

2006年4月の衆議院千葉7区補欠選挙で党の広告に柴犬の「もも」を起用。「もも」は小沢や候補者たちの応援に出向き話題をさらった。小沢によれば当時の小沢の飼い犬であった柴犬「ちび」と似ているという。2007年10月、「ちび」を失った小沢は涙を流し号泣した。2008年、新たに柴犬の子犬2匹を飼い始め、毛並みの色から「クロ」、「チャイ」と名付けた[157]。

韓国をめぐるエピソード