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プロフィー
(以下、ウキペディア引用)
城井 崇(きい たかし、1973年6月23日 - )は、日本の政治家、立憲民主党所属の衆議院議員(4期)。立憲民主党福岡県連代表[1]。
文部科学大臣政務官(野田内閣)などを歴任した。
来歴
生い立ち
北九州市門司区出身[2]。北九州市立田野浦小学校、北九州市立早鞆中学校、福岡県立門司高等学校を卒業後、北九州予備校で2年間の浪人生活を経て、京都大学総合人間学部に進学。1998年に京大卒業後は松下政経塾に入塾し、3年間学んだ。2001年卒塾後、後に民主党代表となる衆議院議員・前原誠司の秘書を務めた[2]。
衆議院議員
2003年11月9日の第43回衆議院議員総選挙では福岡10区から出馬。当時自由民主党に属していた自見庄三郎に敗れるが比例九州ブロックで復活し初当選した。
2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では自見が郵政民営化法案に反対し、自民党から公認を得られなかった。そしていわゆる「刺客」として西川京子が送り込まれた結果、三つ巴の厳しい選挙戦を強いられ自見ともども落選。落選後は党県組織の幹部として党勢の立て直しに努めつつ、国政復帰を目指して活動を続ける一方で、国民新党に入党した自見の支援を受けた。
2007年の北九州市長選挙では、党所属の衆議院議員だった北橋健治の市長当選に尽力。
2008年9月、過去2回と同じく福岡10区での公認が決定。北橋の選挙区だった市の西半分・9区の候補が1次公認を得られなかったという厳しい状況の中での公認獲得だった。翌年の第45回衆議院議員総選挙には、国民新党の推薦を受けて出馬。西川に雪辱を果たし、4年ぶりに衆議院議員に返り咲いた。初当選前のいきさつから一貫して前原グループに属しており、前原とは松下政経塾に於いても先輩・後輩の関係にある。しかし、後述の立憲民主党と国民民主党の合流がきっかけで後輩である稲富修二、関健一郎と共に事実上前原と袂を分かつことになった。
2011年、他の若手議員とともに党内グループメロスネットを結成し、世話人に就任した。野田内閣にて神本美恵子とともに文部科学大臣政務官に任命された。同年8月26日、菅直人首相が民主党代表辞任を正式に表明[3]。菅の辞任に伴う代表選挙(8月29日投開票)では前原誠司の推薦人に名を連ねた[4]。
2012年の第46回衆議院議員総選挙を前にした内閣改造で退任、選挙では福岡10区で山本幸三に敗れ、比例復活ならず落選。その後民進党結成に参画。
2017年の第48回衆議院議員総選挙に師匠・前原の意向もあり希望の党公認で出馬[5]。小選挙区では山本幸三に再び敗れたものの、やはり落選した第47回より獲得票数を大きく増やし、9割以上の惜敗率を得た。台風21号の影響による開票作業の遅れから比例代表区の議席確定が大幅に遅れ、まる1日近く経ってから漸く比例九州ブロックでの復活当選が確定し、約5年ぶりに議席に返り咲いた。
2018年5月7日、民進党と希望の党の合流により結党された国民民主党に参加[6]。5月8日、国民民主党の広報局長に就任した[7]。
2020年8月24日、旧立憲民主党と旧国民民主党は、2つの無所属グループを加えた形で合流新党を結成することで合意[8]。同年9月10日に行われた新「立憲民主党」の代表選挙では泉健太の推薦人に名を連ねた[9]。
2021年10月31日の第49回衆議院議員総選挙では山本を小選挙区で破り4選。同年12月4日、立憲民主党福岡県連代表に就任[1]。
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