google-site-verification: google5c370e0b8f0f7d43.html google-site-verification: google5c370e0b8f0f7d43.html
top of page

​アーカイブ

​記事の種類

参議院議員 鈴木宗男君の通信簿

右をクリックして参議院議員を評価 ☞ 参議院議員の通信簿


プロフィール

(以下、ウキペディア引用)

鈴木 宗男(すずき むねお、1948年1月31日 - )は、日本の政治家。日本維新の会所属の参議院議員(1期)、地域政党新党大地代表。元衆議院議員(8期)。北海道維新の会代表。

鈴木 宗男(すずき むねお、1948年1月31日 - )は、日本の政治家。日本維新の会所属の参議院議員(1期)、地域政党新党大地代表。元衆議院議員(8期)。北海道維新の会代表。


北海道開発庁長官(第66代)、沖縄開発庁長官(第35代)、内閣官房副長官(小渕内閣・小渕第1次改造内閣)などを歴任したが、鈴木宗男事件において逮捕され、最高裁に上告していたが、2010年9月7日付で上告が棄却され、異議申し立ても9月15日付で退けられたため実刑が確定し、議員資格を失いちょうど1年間収監された(詳細は鈴木宗男事件を参照)。日本の政治家の中でも特に、ロシアとの関係が深いことで有名[1][2]。


衆議院議員の鈴木貴子は長女[3]。

北海道開発庁長官(第66代)、沖縄開発庁長官(第35代)、内閣官房副長官(小渕内閣・小渕第1次改造内閣)などを歴任したが、鈴木宗男事件において逮捕され、最高裁に上告していたが、2010年9月7日付で上告が棄却され、異議申し立ても9月15日付で退けられたため実刑が確定し、議員資格を失いちょうど1年間収監された(詳細は鈴木宗男事件を参照)。日本の政治家の中でも特に、ロシアとの関係が深いことで有名[1][2]。


衆議院議員の鈴木貴子は長女[3]。


来歴・人物

自由民主党時代

十勝支庁西足寄村大誉地出身で保守系がひしめいていた旧北海道5区選出の中川一郎衆議院議員の秘書を務める。立会演説会では中川の代理で登壇するほどに中川から信頼を寄せられ、「中川の金庫番」とも言われた[要出典]。


1983年に中川が死去すると、第37回衆議院議員総選挙で中川が生前に立候補していた中選挙区時代の北海道5区(定数5)から、自民党の公認を得られず保守系無所属で立候補。中川の長男である昭一と骨肉の争いを演じ、激戦の末共に初当選(当選同期には田中直紀・熊谷弘・二階俊博・野呂田芳成・衛藤征士郎・金子原二郎・田中秀征・尾身幸次・北川正恭・町村信孝・自見庄三郎・大島理森・野呂昭彦・甘利明など)。期間中、支持者に対して車窓から箱乗りして手を振る姿は有名である[要出典]。初当選後、自民党の中曽根康弘総裁から追加公認され、自民党に入党した。鈴木の事前公認に反対したのは党総務局長であった小沢一郎で、鈴木はそれを知ると後々まで恨んだというが、現在は和解している[要出典]。


魚住昭の『渡邉恒雄 メディアと権力』(講談社)によると、昭一が立候補していたため、読売新聞グループの渡邉に立候補を断念するよう迫られ、鈴木が断るとマスメディアに大々的に鈴木批判の記事が掲載されたという。また同書によれば、鈴木側は「中川先生は世襲に否定的であった」という大義を下に出馬を決断したとしている。


中選挙区時代の北海道5区は、定数5に対し日本社会党が(単独推薦を含め)最後まで3人の候補を立て続けた唯一の選挙区(3人当選する場合もあった)であった。社会党は3人に地盤を三分させ、釧路市を地盤にした候補には岡田利春がいた。昭一との遺恨、自ら「中川一郎先生の応援をえて最年少道議として政界デビュー」と語る保守系無所属の武部勤の参戦もあって、毎回自民3候補(鈴木が当選してからは4候補)対社会党3候補の激戦が、日本一面積の広い選挙区(都道府県面積第2位の岩手県よりも広く、四国一島に相当)で繰り広げられた。


当選後当初は田中派→竹下派幹部の金丸信を、金丸信の引退後は当選回数の近い衆議院議員である野中広務を師と仰ぎ、「野中・鈴木ライン」で政界を叩き上げた。叩き上げの手法の中には、大蔵省への陳情の際に北勝海を同席させたり、リクルート事件で竹下登が辞意を表明した後に後継総裁選定が難航した際に、早くから宇野宗佑が後継であると断言するなど、従来の政治家の常識を超えた行動が目立っていた[要出典]。


1996年の小選挙区制導入で旧5区は11区(十勝支庁)、12区(網走支庁・その後区域変更)、13区(釧路支庁・根室支庁、現在は「7区」に区域名変更)に分割され、11区は中川、12区は武部の地盤となった。13区は北村直人の地盤であったが、北村は当時の新党ブームに乗り、羽田孜・小沢一郎らと新生党結成〜新進党の結党に参加していた。鈴木は自民党候補者が不在となっていた13区に国替えした。



2001年3月、森喜朗首相、小池百合子議員らとウラジーミル・プーチン大統領に会う鈴木宗男(中央)

鈴木にとって中選挙区時代から小選挙区移行後の今日でも十勝支庁は地盤として強固であったが、国替えに伴い、それまで縁の薄かった釧路市に家を構えたことに関し、嫌悪感を持った釧路市民も多いと伝えられる。国替え直後の総選挙では、釧路市を大票田とする北海道13区では自民党を離れながらも酪農業を中心に保守層を押さえた北村に敗れ、重複立候補していた比例代表北海道ブロックで復活当選した。


選挙区の国替え後、基本的には十勝支庁の土建業者の支持を中心に受けつつ、補助的には自民党代議士が永く不在なため基盤整備の遅れた道東の中心都市・釧路市を含む釧根(釧路支庁・根室支庁)、特にこれまで独自の国会議員を持ったことがない根室支庁では建設業界に支持が根強い。ライバルの北村が酪農家を地盤としたのに対し、鈴木は岡田利春の基盤であった漁業関連へと食い込み、「海関連」で強固な人脈を築いた。


1997年9月発足の第2次橋本改造内閣に北海道開発庁長官・沖縄開発庁長官として初入閣。1998年6月には現職閣僚として初めて国後、択捉両島を訪問した。同年7月発足の小渕内閣では閣僚経験者ながら内閣官房副長官に抜擢された。


疑惑・逮捕・落選

詳細は「鈴木宗男事件」を参照

2002年2月4日、NGO出席問題を巡って田中眞紀子外務大臣と対立する形で衆議院議院運営委員長を辞任。9日後の2月13日、国後島の「日本人とロシア人の友好の家」(いわゆるムネオハウス)の建設をめぐる疑惑を発端として、数々の疑惑が浮上。2月20日に参考人招致、3月11日に証人喚問を受けたが明白な答弁は避けた。一切の疑惑に対して曖昧な釈明に終始したことより、社民党の辻元清美議員から「もう、ど忘れ禁止法を適用したい」「あなたはねぇ、疑惑のデパート言われてますけど疑惑の総合商社なんですよ!」と批判を受けた(辻元は7年後の2009年に外務委員会で「(自分が追及した案件については)裁判でもその事実は出ておらず、確証がなかった。そのような言葉遣いをしたことを反省している」と陳謝している)。3月15日、自民党を離党。さらに3か月後の6月19日、やまりん事件のあっせん収賄容疑を理由として衆議院本会議にて逮捕許諾請求が可決され逮捕された。21日、衆議院本会議で議員辞職勧告決議が可決されたが議員辞職はしなかった。7月20日、あっせん収賄罪で起訴。証人喚問において島田建設事件とモザンビーク事件に絡んだ証言が偽証として9月13日に議院証言法違反で、また、政治資金規正法違反の罪でも併せて起訴された。


2003年9月、第43回衆議院議員総選挙の直前に保釈(2002年12月と2003年4月に保釈を申請しているが「罪証隠匿の恐れがある」として却下された)。その後衆議院本会議に出席。議員辞職勧告決議がされた国会議員が決議を無視して登院したのは初めてのことであった。同年10月、胃がんを手術。2004年の第20回参議院議員通常選挙に北海道選挙区から無所属で立候補するも落選(得票数48万5382票)。2004年11月5日東京地方裁判所での第一審で受託収賄・あっせん収賄・政治資金規正法違反・議院証言法違反の4件で有罪となり「懲役2年の実刑、追徴金1,100万円」の判決が下された。鈴木は一連の事件を全て否定した上で「国策捜査」と批判し即日控訴した。2008年2月26日に東京高等裁判所においても控訴棄却となり、即日最高裁判所に上告した。


新党大地代表

2005年8月18日、松山千春とともに新党大地を結成し代表に就任。9月の第44回衆議院議員総選挙に北海道ブロックでの比例1位候補として立候補して当選、衆議院議員復帰を果たした(2004年参議院選挙で鈴木の獲得票数から勘定すれば新党大地は北海道比例ブロックでの1議席の確保が見込まれていた。2005年衆院選は自民党による刺客候補が世間を騒がせた選挙であったため、鈴木が逆に刺客として中川昭一の北海道11区や武部勤の北海道12区等の自民党大物議員の選挙区に立候補することも浮上したが、新党大地が公職選挙法上の政党でなかったために鈴木は重複立候補ができず、比例名簿1位記載の比例単独候補となった(新党大地ではなく、自民系反郵政民営化政党であり北海道比例ブロックに候補者を一人も擁立していなかった国民新党であれば政党要件があるため、北海道比例ブロックでの比例1位と選挙区での重複立候補が可能ではあった)。


当選後の特別国会での首班指名選挙では小泉純一郎に投票、再提出された郵政民営化法案には反対票を投じた。その当時再び胃がんとなり、再手術したと2006年9月19日の『最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学』で告白した。


2006年9月26日の首班指名選挙では民主党代表の小沢一郎に投票。また10月22日には30分間小沢と会談し統一地方選や参議院議員選挙での協力を約束したが、2007年7月の第21回参議院議員通常選挙で民主党の支援を受けた新党大地推薦候補が落選したことから民主党との選挙協力を白紙に戻し、自民・民主両党との間で是々非々のスタンスを取ると表明。


2008年9月19日、国民新党と統一会派「国民新党・大地・無所属の会」を結成。10月3日に札幌市事務所の会見で、新党大地代表として軸を置いて政党間協議を見ながら最終的に判断するとした上で国民新党や民主党からの重複立候補をした上での小選挙区立候補を示唆する発言をしていた。最終的には第45回衆議院議員総選挙では前回同様新党大地として北海道比例ブロックに立候補、前回同様1議席を獲得し、新党大地代表として2期目の議員生活を送る。


2009年9月16日、新党大地が衆議院で民主党の統一会派「民主党・無所属クラブ」に参加する形で与党会派入り、9月17日に衆議院外務委員長に就任。有罪判決を受けて上告中の刑事被告人が与党会派入りして国会の常任委員長に就任するのはきわめて異例である。自民党・公明党・共産党の野党は「一、二審で有罪判決を受けて上告中の刑事被告人なので、委員会を代表して円滑かつ公平な運営にたずさわる役職にふさわしくない」として鈴木宗男の外務委員長就任に反発し、与党の民主党は「推定無罪の原則がある」「直近の民意で当選している」と反論。常任委員長は慣例として全会一致で議長指名として選出されるところ、本件については異例の起立採決で議長指名となり、横路孝弘衆議院議長が鈴木宗男を外務委員長に指名した。この国会人事については民主党が北海道で圧勝した鈴木宗男の影響力を考慮した論功行賞的な人事とする向きもある[4]。鈴木は自身の刑事訴訟と外務委員長就任について2009年11月18日に岩屋毅から質問を受けた際には「司法は司法の判断。立法府は立法府の判断があっていい」と述べた[5]。


2009年10月3日、ライバルであった中川昭一が死去し、記者会見で号泣した。


その後、2009年12月4日に鳩山由紀夫首相が首相官邸で元駐日ロシア大使と北方領土問題で会談をした際に同席したり、2010年1月17日に新党大地代表として民主党大会に来賓として招かれた。2010年5月、8年ぶりにロシアを訪問し、11日にモスクワのロシア外交アカデミーで講演、「鳩山首相の時に北方領土問題解決、平和条約締結ができなければ、未来永劫解決できない」と演説した。


失職・収監


2013年12月20日、参議院議員丸川珠代(左端)、チェリーブロッサムインターナショナル代表取締役佐野美和(左から2人目)、ナック名誉会長西山由之(中央)らと。右から二人目が鈴木宗男。

2010年9月7日、最高裁判所が上告棄却を決定した[6]。鈴木議員側は異議申し立てを行う一方で衆議院外務委員会が9月9日に理事懇談会を開催し、鈴木の外務委員長としての職務を停止し、筆頭理事の小宮山泰子が委員長代行に就任する決定を行った[7]。9月15日に異議申し立てが却下されたため[8]、「懲役2年の実刑、追徴金1100万円」の第一、二審判決が正式に確定した。これにより鈴木は公職選挙法の規定により被選挙権を失ったため、国会法の規定に基づき衆議院議員及び衆議院外務委員長を退職(失職)した。なお、第二審で「未決勾留日数220日を算入する」とされたため、刑期はそれを差し引いた期間(約1年5ヶ月)となる。


また公職の収賄罪で実刑確定となったため、公職選挙法の規定に基づき刑期満了から5年間は公民権停止となる。判決時の2010年時点では公職の収賄罪の実刑確定は刑期満了から5年間の選挙権停止と10年間の被選挙権停止の規定であるが、この規定は1999年9月2日以降に起こした事件の規定であるのに対し、収賄罪が認定された最後の事件は1998年8月の事件のため、憲法の遡及処罰禁止規定(39条前段)により、法改正前の当時の公民権停止規定である刑期満了からの5年間の公民権停止となった。


退職(失職)に伴い、比例名簿第2位で登載されていた八代英太は既に離党しており、代わって次いで比例名簿第3位に登載されていた浅野貴博が繰り上げ当選した。同年12月6日に収監された[9]。


収監中は喜連川社会復帰促進センターで服役していることを、関係者を通じて自らのメッセージを発表する形で明らかにした[10]。


2011年12月6日に収監からちょうど1年で仮釈放された[11]。刑期満了は2012年4月、公民権停止満了はさらに5年後の2017年4月となった。


公民権停止

2011年12月28日に、新党大地の浅野貴博、元民主党の松木謙公と石川知裕の衆議院議員3名と元民主党の横峯良郎、無所属(会派は民主党・新緑風会所属・元新党日本)の平山誠の参議院議員2名。計5名の国会議員とともに新党大地・真民主(当初の党名は「大地・真民主党」)を結党し、党首に就任した。新党大地代表時代は政党交付金廃止を主張していたが、新党大地・真民主メンバーの多数派の意見として新党大地・真民主は政党交付金を受け取ることを発表し、2012年4月に政党交付金を受け取った。収賄罪、政治資金規正法違反、議院証言法違反(偽証罪)で有罪が確定して公民権を有しない者が党首の政党に政党交付金が支給されるのは極めて異例。


2012年12月の第46回衆議院議員総選挙、2013年7月の第23回参議院議員通常選挙では新党大地代表として政治資金規正法違反で有罪が確定して選挙運動ができない中で選挙戦に臨むことになった[12]。2014年12月の第47回衆議院議員総選挙では候補者を立てなかった。


公民権回復後

2017年4月に公民権が回復したため、同年10月の第48回衆議院議員総選挙では新党大地より比例北海道ブロックに名簿順位1位で立候補したが落選した。 2019年5月23日、食道がんが見つかり、手術することを公表した[13]。同年6月18日、第25回参議院議員通常選挙の参議院比例区で日本維新の会から出馬することが報じられた[14]。同年7月21日、第25回参議院議員通常選挙の比例代表で当選し、約9年ぶりに国政復帰を果たした[15]。


略歴

1948年 - 1月31日 北海道足寄郡西足寄村(現:足寄町)大誉地で出生(農家の次男)。

1966年 - 3月 北海道足寄高等学校卒業。

1970年 - 4月 拓殖大学政経学部卒業、同大学在学中から衆議院議員中川一郎秘書。

1983年 - 12月18日 第37回衆議院議員総選挙(旧北海道5区・自由民主党公認)当選1期目。

1986年 - 7月6日 第38回衆議院議員総選挙(旧北海道5区・自民党公認)当選2期目。

1990年 - 2月18日 第39回衆議院議員総選挙(旧北海道5区・自民党公認)当選3期目。

1993年 - 7月18日 第40回衆議院議員総選挙(旧北海道5区・自民党公認)当選4期目。

1996年 - 10月20日 第41回衆議院議員総選挙(北海道13区・自民党公認)当選5期目当選(比例復活当選)。

1997年 - 9月11日 国務大臣北海道開発庁長官・沖縄開発庁長官(第2次橋本内閣改造内閣)。

1998年 - 7月30日 内閣官房副長官(小渕内閣)。

2000年 - 6月25日 第42回衆議院議員総選挙(比例代表北海道ブロック・自民党公認)当選6期目。

2002年(平成14年)

1月 ケニアのODA疑惑で田中眞紀子外務大臣(当時)と衝突。

2月20日 参考人招致。→第154回国会 予算委員会 第14号議事録

3月11日 証人喚問。→第154回国会 予算委員会 第22号議事録

3月18日 民主党を含む野党4党によって、偽証の罪で最高検に刑事告発される。

3月 1996年国後島訪問の際、外務省職員に暴行を加えていた事実が発覚し自民党を離党。

4月 国後島「日本人とロシア人の友好の家」建設をめぐる容疑で、宮野明公設第一秘書逮捕。

6月 帯広市の製材会社「やまりん」からのあっせん収賄容疑で逮捕、衆議院からの議員辞職を勧告。

7月 あっせん収賄罪で起訴。

8月 建設会社からの受託収賄容疑で再逮捕・追起訴。

9月 衆院予算委が偽証罪で鈴木を告発したのを受けて、議院証言法違反の罪で起訴。又、同時に政治資金規正法違反の罪でも追起訴

11月 初公判

12月 保釈を申請するも、「証拠隠滅の恐れがある」として却下

2003年

4月 保釈を再度申請するも、「証拠隠滅の恐れがある」として却下

8月29日 保釈保証金5000万円を納付し、保釈。拘置日数は437日で、戦後の逮捕された衆議院議員で最長。

2004年

7月11日 第20回参議院議員通常選挙(北海道選挙区・無所属)落選。

11月5日 東京地方裁判所からあっせん収賄罪など4つの罪で懲役2年の実刑判決が言い渡される。

2005年

8月18日 北海道の地域政党新党大地を結党。

9月11日 第44回衆議院議員総選挙(比例北海道ブロック・新党大地)当選7期目。

2008年

2月26日 東京高等裁判所が東京地方裁判所の判決を全面的に支持し、控訴を棄却した(有罪判決)。

9月19日 衆議院で国民新党と統一会派「国民新党・大地・無所属の会」を結成。

2009年

8月30日 第45回衆議院議員総選挙(比例代表北海道ブロック・新党大地)当選8期目。

9月16日 新党大地が衆議院で民主党の統一会派「民主党・無所属クラブ」に参加し、与党会派に入る。

9月17日 衆議院外務委員長に就任。

2010年

9月7日 最高裁判所が上告を棄却。懲役2年の実刑判決が確定。

9月9日 衆議院外務委員長としての職務を停止、筆頭理事の小宮山泰子が委員長代行に就任へ。

9月16日 衆議院議員を失職。

12月6日 収監。

2011年

12月6日 仮釈放。

12月28日 東京都選挙管理委員会に対し、新党の設立を届け出る。

2017年

4月30日 公民権回復。

10月22日 第48回衆議院議員総選挙(比例代表北海道ブロック・新党大地)落選。

2019年

6月18日 第25回参議院議員通常選挙に向けて、日本維新の会に入党。

7月21日 比例区で当選。

2020年

9月17日 参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長に就任[16]。

エピソード

ロシア連邦との関係

自民党時代から森喜朗と同じく親露派である。安倍晋三に対しても長門市での日露会談を高く評価するなど、親露的姿勢を評価しており、日本の技術力でシベリア・ロシア極東を開発する事を提唱している。


人物像

歌手の松山千春は、同郷の後輩かつ足寄高校の後輩であり親友でもある。松山のコンサートに顔を出すことも多い。

新人議員の頃から激情的傾向が強く、国会内でよく野次を飛ばしていた。一時期浜田幸一・松田九郎と共に「自民党の三大野次将軍」とも呼ばれていた。鈴木は浜田・松田とは非常に仲が良かった。

1991年10月、国交正常化の政府特使としてバルト三国を訪問したとき、杉原千畝の名誉を回復した。ただし、杉原千畝は大臣訓令に背いて懲戒解雇になった外交官であるため、日本の外務官僚とは衝突する形になった。この件をきっかけとして、モサドからイスラエルなどの機微に触れる情報が入ってくるようになった[17]。

2005年9月の衆院選で当選して以降、逮捕前まで深い関係にあった外務省との対決姿勢を鮮明にした(鈴木自身外交族でもあった)。国会では外務委員会で政府の対ロシア外交を失敗であると追及したり、外務省に矢継ぎ早に質問主意書を出して職員の不正を追及している。国会以外でもテレビ・雑誌などのメディアにも頻繁に登場し、外務省批判を繰り広げている。特に『週刊新潮』に5回にわたって連載された手記「『外務省の犯罪』を暴く!」では、現役の外務省キャリア職員のスキャンダルを実名で暴露して大きな波紋を呼んだ。

佐藤優同様、親イスラエルの姿勢を見せている。2009年のイスラエルによるガザ侵攻に際しては、3度にわたって質問主意書を提出した。ガザ地区を実効支配するハマースをテロ組織とする見解から、パレスチナへの1000万ドルの緊急人道支援は「我が国はテロ支援をし、テロに担する国であるというアピールをすることに等しく、我が国の国益を損なうことに繋がるのではないか」(2回目)と質問している。政府は麻生太郎首相の名で、ハマースを「テロリスト等一団体と認識している」こと、人道支援は「国際機関を通じて実施するものであり、御指摘は当たらない」とする回答を出した。「武力紛争が起きた原因はハマス側にあるとするイスラエル政府の右認識は、政府の認識と同じものか」(3回目)に対しては、「個別具体的原因を特定することは困難」と政府側は答弁した[18]。

また、佐藤優のインタビューに答えるかたちで、「官房副長官在任当時、沖縄県名護市長選挙で与党推薦候補者に官房機密費から多額の資金支援を行った」と証言している。

北海道ではいまだに「宗男詣で」をしている建設業者が多い。また、次に挙げるものでは「口利き」をした(便宜を図った)とされている。

1989年6月に国鉄再建法施行により廃止対象となった国鉄池北線を、第三セクターの北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線として存続させたが、2006年4月21日に廃止された。

1999年7月に行われたJR北海道宗谷本線多寄駅・駅前通りの延伸工事。

2006年2月に北海道縦貫自動車道(道央道)の未着工区間が、暫定2車線の新直轄方式で建設着工命令が出されたこと。

1995年(平成7年)に廃止された、陸上自衛隊第9普通科連隊の廃止に関わる工作等に、少なくとも鈴木の関与は間違いないとされている。特に名寄や留萌という北部や沿岸地域とは離れ、ほぼ内陸に所在して、さほど防衛としては重要とされておらず、2師団(甲)への増強の際に廃止となる予定であった、陸上自衛隊第25普通科連隊が廃止になると、地元である道東地方での影響が計り知れないとの判断で、関係先へ圧力をかけて、決まりかけていた廃止を撤回させたという話が、元9連隊所属隊員や25普連所属隊員の間での暗黙の了解事項である。

その他

名前の由来は、宮城県の郷土の英雄、伊達政宗から一字を取っている。なお、命名した父は宮城県栗原郡志波姫町(現:栗原市)の出身である[19]。

伊吹文明とは83年初当選同期で現在に至るまで公私に渡り親しい。若手時代は将来の目標を「伊吹総理の下での自民党幹事長」と公言していた。鈴木が勾留中、伊吹は東京拘置所に接見に訪れ激励していた。第21回参議院議員通常選挙、道選挙区・大地新人の多原香里が民主党推薦候補ながら民主党の協力不十分で落選。鈴木は一時期、伊吹が幹事長就任した自民党との次期衆院選での選挙協力も視野に入れた。

馬を売って大学の学費に充てた苦学生という話がある一方で、地元の素封家、豪農という話もある。東京に出ずに道内の大学に進学していれば馬を売る必要はなかったと指摘する声もある[20]。

1973年、金大中事件が発生。当時鈴木が秘書をしていた中川一郎が宇都宮徳馬とテレビの生番組で顔をあわせた際、金大中にシンパシーを持っていた宇都宮が中川に向かって「お前は韓国から金をもらっているだろう」と発言。これに怒った中川はコマーシャル中に宇都宮を追い掛け回し、鈴木も同調、さらには宇都宮の首をネクタイで絞めた。

1994年、自民党と社会党が連立政権に合意した。その首班指名選挙直前、議運理事であった鈴木は、自民党代議士会で「村山富市の『いち』は市場の『市』ですから間違わないで下さい」「村山達雄さんもおられるので、村山富市とフルネームで書いてください」と自民党議員たちに投票における注意点を説明していたが、鈴木自身は直後の本会議で村山の対抗馬として新生党など連立与党が擁立した海部俊樹に投票し、造反した。1回目も「海部」、決選投票も「海部」と書き、造反したのは一人だけであり、役職停止処分となった[21]。

無派閥時代が長かった鈴木が1993年に経世会(小渕派)に所属した訳を聞かれると「経世会には自分の世代が極端に少ないんだ。あとは(鈴木と当選同期の)額賀福志郎くらいで、これはどうにでもなる」と答え、鈴木は額賀を軽く見ていた[22]。しかし、1994年6月の首班指名で鈴木が党議に逆らって海部俊樹に投票して党内と派閥内で孤立した際、額賀は孤立した鈴木の擁護に回った。そのことで鈴木は額賀に恩義を感じ、一目を置くようになった。

「野中氏が白を黒と言えば、自分も黒」と公言したことがある。

目下の人相手に高圧的な態度をとる事で知られていた。電話でも「代議士の鈴木だ」「国会議員の――」としか名乗らず、国際交流基金に電話をかけた際、担当者として受けた皇族の高円宮憲仁親王(当時、同基金の嘱託職員として勤務)を受付係と勘違いして怒鳴りつけたが、「殿下だ」と判ると蒼ざめて、慌てて直接謝罪したいと申し出たものの丁重に拒否されてしまい、謝罪を受け付けてもらえなかった[23]。

1996年の衆院選前に執行部への公認の橋渡し、資金援助、後援企業の紹介などでシンパを増やしつつ、大半を当選させた。その後に鈴木による派閥横断「ムネムネ会」を結成し、薄く広く全国から集めた政治献金を会員に配ることで政界での影響力を増大させた。

1998年のこと。鈴木は訃報を聞くまで、映画監督の黒澤明を知らなかった。それまで映画館に行ったこともなかった。秘書が黒澤の実績を説明すると、突然首相の小渕恵三に電話し(鈴木は当時小渕内閣の官房副長官を務めていた)、「総理、黒澤監督は国民栄誉賞に値すると思います。ぜひ、ご検討ください」と進言した。黒澤には後に国民栄誉賞が贈られている。

2001年に運行された北斗星まりも札幌~根室間運行の誘致に積極的に関与しており、本人も運行日にA個室ロイヤルに乗車し終着まで乗車している。

国会での証人喚問の頃「ムネオハウス」に掛けたパロディー音楽が、インターネット上で流行した。その後2004年5月に札幌で行われた「ムネオハウス」のクラブイベントに「MCムネオ」名義で出演した他、2006年2月23日に東京都渋谷区のクラブ「シムーン」で「100%ムネオナイト」なるイベントに招かれて(自分の主催ではない)、自らラップに挑戦した。

高校の後輩である元プロ野球選手で西武の三井浩二投手が、現役時代に独自の変化球を先輩に敬意を表して「ムネオボール」と命名したが、その後名称変更(三井浩二#人物)。

保釈後、再当選してからは、テレビのバラエティー番組などのゲストに呼ばれている。ライブドア前社長、堀江貴文が逮捕された際には、かつて経験した拘置所内の生活についてインタビューされ、「手帳も携帯電話も全て没収されました。堀江さんのように、情報を扱う仕事に就いていた人にとっては、情報がシャットアウトされることが一番辛いでしょうね」「私は生まれが貧しかったので、あの頃に比べればここ(拘置所)はまだマシだと思って辛抱しました」などと、コメントしていた。

フジテレビ『めちゃ×2イケてるッ!』の企画で鈴木宗男のそっくりさんとして、坂田利夫が登場するはずであったが、坂田の仕事のため、「そっくりさんの代役」として鈴木本人が登場した。

2006年5月3日に空き巣の被害に会い、警視庁赤坂署が捜査したところ、1階応接室の窓ガラスが割られ、2、3階の部屋が物色されていた。夫人愛用の装飾品が数点盗まれた。

ジョギングを日課としており、海外出張先でも怠らないほど。2007年2月18日の東京マラソンにも抽選の結果、当選して一般ランナーとして出場し、59歳ながら4時間7分40秒で完走した。元気に回復した姿を他のがん患者たちに見てもらって勇気付けたい、という想いからである。完走の後、ランナー姿[24] のまま車で空港に直行し、その日の18時には北海道で行われた会合に参加した。2007年5月20日に、翌年の先進国首脳会議の開催地でもある北海道洞爺湖町で開催された「洞爺湖マラソン2007」の10kmの部に出場し、47分52秒で完走した。2008年2月17日には健康を心配する家族の反対を押し切って、再び東京マラソンにエントリーした。抽選に当選し出場することとなり、前年の記録を上回る3時間57分11秒で完走を果たし、政治家では東国原英夫を上回るタイムであった。2009年3月22日の東京マラソンでは3時間49分2秒で政治家では東国原に次ぐタイムで完走した。日頃のトレーニングにより、還暦ながら大変引き締まった身体をしている。

松岡利勝とは酒席を共にして種々の相談をする等、文字通りの師弟関係にあったとされる。政界では「東に鈴木宗男、西に松岡利勝」と揶揄された時期もあった。

2007年7月の参議院選挙では、姫井由美子の応援に駆けつけ「岡山の虎(片山虎之助)を退治しに、北海道からクマが参りました」と演説した。

多数の質問主意書を提出しており、その提出数は断トツである(2005年9月から2009年7月までの累計は1800通を超える)。外務省の不祥事を追及する内容が大半であるが、警察・検察に対する内容も多い。括弧内は当該会期で衆議院に提出された質問主意書の総数(撤回を含む)。

第163回国会 28通(/72)38.8%

第164回国会 227通(/382)59.4%

第165回国会 156通(/270)57.7%

第166回国会 309通(/481)64.2%

第167回国会 5通(/24)20.8%

第168回国会 213通(/397)53.6%

第169回国会 285通(/587)48.5%

第170回国会 183通(/380)48.2%

第171回国会 466通(/691)67.4%

第172回国会 22通(/22)100.0%

第173回国会 44通(/175) 25.1%

第174回国会 194通(/592) 32.8%

第175回国会 16通(/55)29.1%

2008年10月30日には、「麻生太郎内閣総理大臣の自宅を見に行こうとしたデモ隊の逮捕勾留に関する質問主意書」を提出し、警視庁によれば麻生邸見学ツアー主催者は事前に許可を得ていなかったとする答弁を引きだした。

鈴木の選挙では、移動する車の窓を開け、そこから身を乗り出して座る「ハコ乗り」が北海道の選挙の名物ともなっている。

2009年5月に『内閣として法曹資格を有していない者を「最高裁裁判官」に指名または任命しているのなら、それは適切か。法曹資格を有していない者が「最高裁裁判官」の任に就くことは、我が国の司法の水準向上、裁判の適正な執行等に鑑みて適切であるか』『かつて行政官の職責に就いていた者が「最高裁裁判官」の任に就くということは、「最高裁裁判官」の身分が行政官の天下り先となっているとも受け止められるのではないか』とする質問主意書を出し[25]、法曹資格を有していない者や行政官経験者が最高裁判所裁判官に就任することについて懐疑的な質問をした。なお、鈴木宗男はかつて北海道開発庁長官時代の1997年9月に、法曹資格を持っておらず行政官である内閣法制局長官の経験がある大出峻郎の最高裁判所裁判官任命について、橋本内閣の一員として同意した過去がある。

2009年の衆院選中には、学校の先輩後輩の仲である松山千春が唄って鈴木を応援する姿が報道で流れた。歌手が特定の候補者を唄って応援するのは公職選挙法違反にあたる可能性がある。

2009年9月4日のムネオ日記で鈴木が「昭和天皇が戦争責任を取って退位すべきであった(昭和天皇の戦争責任論)」と述べたことに、ジャーナリストの櫻井よしこが反論している。

2010年1月16日、民主党大会の挨拶で、小沢一郎民主党幹事長における陸山会事件に対し「検察が正義と思ったら大間違いである。間違った権力とは断固戦っていこう」と語った(検察の不当行為については、2010年9月10日に一審で無罪判決が出た厚労省元局長の村木厚子も判決直後の会見でほぼ同様の批難をした)[26]。

2010年1月18日、フォーラム神保町と現代深層研究会主催の緊急シンポジウム「『新撰組』化する警察&検察&官僚がニッポンを滅ぼす!」に、青木理、魚住昭、大谷昭宏、岡田基志、木村三浩、郷原信郎、佐藤優、田原総一朗、平野貞夫、宮崎学らとともに参加した[27][28]。

かつては世襲議員を批判していたが、2012年12月16日実施の第46回衆議院議員総選挙に長女の鈴木貴子が立候補し、落選。2013年5月に石川知裕が議員辞職したことに伴い、惜敗率で2位であった貴子が繰り上がり当選した。自らの子供が世襲したことについては肯定するコメントをしている。

2013年に実施された、第23回参議院議員通常選挙では、新党大地の比例代表候補者として、十数年の付き合いがあるという同姓同名の千葉県のNPO法人代表、鈴木宗男を名簿登載。公民権停止によって選挙運動のできない自身に代わって「政策理念が一致している」同氏の出馬を勧めた。代表と誤認して投票する可能性についても「間違って投票してもらっても結構」としている。しかし同候補者は党内でトップの62902票が入ったものの、議席獲得には至らず、落選した[29]。同姓同名の鈴木宗男の擁立を決めたのが公示前日で、名前入りの選挙カーとタスキを用意する時間がなかった。選挙後、鈴木は「タスキをかけておれば(同姓同名の鈴木候補は)あと10万票は上積みできた」と悔やんだという[30]。

「ムネオ先生」が4コマ漫画のキャラクターとなって連載される。2015年3月30日発売の『週刊大衆4月13日号』からスタート[31]。

漫画『勇午』の「洞爺湖サミット編」に、鈴木宗男をモデルにした「山田三根夫」という政治家が登場する。ロシアとの天然ガス事業に奔走する人情味にあふれた人物として、好意的に描写されている。

国政復帰を果たした2019年の参議院選挙において、公示日前日の同年7月3日に北海道放送(HBCテレビ)の夕方ワイド番組『今日ドキッ!』において鈴木に密着する模様が放送された[32][33]。放送後、放送倫理・番組向上機構(BPO)はこの放送内容が放送倫理に違反するものと認定した[32][34][35]。

政策

憲法改正に賛成[36]。

同性結婚容認に賛成[37]。

選択的夫婦別姓導入に「夫婦同姓は当たり前で、なんの議論の余地もない」としている[38]。

「新自由主義経済政策により、格差の広がる社会になり若者がやる気を失っている」として強く批判し、ニューディール政策的な公共事業発注により地方経済を回す政策を重視する。TPPについても新自由主義の考えであり日本の歴史と文化を守る上で断固反対としていた[39]が、鈴木が2019年に入党した日本維新の会はTPPに賛成している[40]。

北海道の自立、アイヌ民族の権利の確立、雇用の確保、北方領土問題の解決等を訴えている。

北海道アイヌ協会との付き合いが深い。札幌アイヌ協会事務局次長の多原良子の娘の多原香里が2007年の第21回参議院議員通常選挙において北海道選挙区から、元職員の阿部千里が2017年の第48回衆議院議員総選挙の比例北海道ブロックから北海道の地域政党の新党大地(代表:鈴木宗男)の推薦及び公認を得て出馬している(いずれも落選)。

在日韓国人への参政権付与に賛成の立場を示している[41]。

議員連盟

感染対策を資材と方法から考える超党派議員連盟に所属し、空間除菌を推進。

死刑廃止を推進する議員連盟の発足以来からのメンバーである[42]。

主な役職

Question book-4.svg

この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。

出典検索?: "鈴木宗男" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年2月)

新党大地代表

新党大地・真民主代表

八角部屋後援会会長

ガーナ共和国議員連盟会長

ガボン共和国議員連盟会長

カメルーン共和国議員連盟会長

ギニア共和国議員連盟会長

ケニア共和国議員連盟会長

コンゴ民主共和国議員連盟会長

ザンビア共和国議員連盟会長

ジンバブエ共和国議員連盟会長

コートジボワール議員連盟会長

ナイジェリア連邦共和国議員連盟会長

ブルキナファソ議員連盟会長

ブルンディ共和国議員連盟会長

ボツワナ共和国議員連盟会長

モーリタニア・イスラム共和国議員連盟会長

モザンビーク共和国議員連盟会長

ルワンダ共和国議員連盟会長




コメントお願いします。


右をクリックして参議院議員を評価 ☞ 参議院議員の通信簿

0件のコメント

Comments


CheHigh.jpg

​管理人

 国会議員の管理人です。

​ ツイッターでは以下のとおり、国会議員についてツイートしています。(コロナ関連も含む。)

 霞が関、官邸、国会などに出入りしていました。東京都出身。

​おすすめ記事

1/2
bottom of page