google-site-verification: google5c370e0b8f0f7d43.html google-site-verification: google5c370e0b8f0f7d43.html
top of page

​アーカイブ

​記事の種類

参議院議員 石井浩郎君の通信簿

右をクリックして参議院議員を評価 ☞ 参議院議員の通信簿


プロフィール

(以下、ウキペディア引用)

石井 浩郎(いしい ひろお、1964年6月21日 - )は、秋田県南秋田郡八郎潟町出身の元プロ野球選手で、現在は参議院議員、実業家。2010年、参議院議員選挙に自由民主党から立候補し、初当選。当選2回[1]。


経歴

プロ野球選手として

プロ入り前

八郎潟町立一日市小(6年生の時に統合して八郎潟町立八郎潟小学校となる)、八郎潟町立八郎潟中学校を卒業後、1980年に県内一の進学校であり、県内では野球強豪校でもある秋田県立秋田高等学校に進学。1981年秋季東北大会に進み、東北高との1回戦で投手として先発、金子誠一と投げ合うがコールド負けを喫する。翌年夏も秋田大会で敗れ甲子園には出場できなかった。高校通算32本塁打を記録している[2]。


高校卒業後、一般入試で早稲田大学第二文学部に進学し、早稲田大学野球部に入部。東京六大学野球リーグでは優勝に届かず、1985年春季リーグ2位が最高成績であった。同季は三塁手としてベストナインにも選出され、同年の日米大学野球選手権大会にも出場した。リーグ通算66試合出場、241打数58安打、打率.241、15本塁打、42打点。ベストナイン1回[2]。大学同期には遊撃手の佐藤公宏(日本生命)らがいる。


1987年にプリンスホテルに入社[3]。サンシャインシティプリンスホテルに勤務しながらプリンスホテル硬式野球部に3年間在籍し、通算32本塁打を記録。1989年の都市対抗には4番打者として出場。大昭和製紙北海道との決勝では勝ち越し犠飛や適時打を放つなど活躍、チームの初優勝に貢献した。チームメートには住吉義則、橋本武広らがいた。同年の社会人ベストナイン(三塁手)に選出され、インターコンチネンタルカップ、アジア選手権日本代表も経験、4番打者も務めた[2]。


1989年度ドラフト会議にて近鉄バファローズから3位指名を受けて入団。しかしこの直後肝炎で入院している[4]。


近鉄時代

アマチュア時代は全日本の4番打者を務めるほどの長距離バッターであったが、1年目の3月、当時チームの主砲であったラルフ・ブライアント、鈴木貴久らが藤井寺球場での打撃練習で外野スタンドにポンポンと打球を放り込むのを見て「自分は中距離打者に過ぎないのではないか」と衝撃を受けたと述べている。前年、ドラフトに指名される直前の10月12日の西武の優勝がかかった西武球場での対近鉄ダブルヘッダーを西武を応援する為に観戦していたが、試合はブライアントの4連発などもあり近鉄が勝利し、「こんなチームに入ったら苦労するぞ」と恐れていた、とも述べている[5]。


1年目は肝炎と風疹のため出遅れたがジュニアオールスターでMVPを獲得、シーズン22本塁打を記録。同年は最優秀新人にはならなかったものの、優秀新人賞としてパ・リーグ特別表彰を受けている。また、入団から5年連続20本塁打以上を記録した。1992年のオールスターゲーム第1戦では小松辰雄から本塁打を放つ[6] など活躍でMVPを獲得。ジュニアオールスターとの獲得は史上初[7] である。1993年には、辻発彦に次ぐリーグ2位の打率.309を記録[8]。1994年には33本塁打、111打点で打点王のタイトルを獲得した[9]。


しかし、1995年5月18日に右足かかとを亀裂骨折し離脱が避けられない重症であったが、掛布雅之の持つ「4番打者の連続先発出場記録」を更新するため試合出場を強行、6月には1打席だけ打席に立ち交代するという異常事態が続き、記録を更新した6月8日の試合を最後に戦列離脱。この年以降は故障に泣かされ成績が急降下する事態となる。1996年には開幕2試合目に左手首を骨折し[10]、その2試合のみの出場にとどまる。渡米しロサンゼルスで手術を受けたが渡航費用も手術費用も自己負担となり、同年オフ、球団が日本プロフェッショナル野球協約の制限を超える60%ダウンの年俸提示に対して、年俸調停を申請[11]。


1997年1月14日に吉岡雄二、石毛博史との交換トレードで読売ジャイアンツへ移籍。


巨人時代

1997年、6月終盤に一軍昇格。6月25日の対横浜戦で移籍後初スタメン出場すると、翌26日は移籍後初安打を記録。更に、9回1点リードされている場面で横浜のリリーフエース「大魔神」こと佐々木主浩から同点となる移籍後初本塁打を放つ。6月28日の対中日戦では第65代目の4番としてスタメンで出場し[12]、その後も4番打者として低迷するチームを支えたが、8月初旬に怪我で戦線離脱しそのままシーズンを終えてしまった[13]。


1998年、負ければチームの貯金がなくなる7月29日の対ヤクルト戦(神宮)において、両チーム無得点のまま迎えた10回表の満塁の場面で石井は代打で出され、プロ野球8人目、巨人では38年ぶりとなる延長での代打満塁本塁打を放ち、試合はそのまま4対0で巨人が勝利している[14]。


ロッテ時代

1999年オフの11月8日に河本育之との交換トレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍[15]。ロッテ移籍1年目の2000年に4番打者に定着し2年連続二桁本塁打を放って活躍するも、シーズン後半に左手首を骨折して途中離脱。2年目は代打要員に甘んじた。ロッテ時代の応援歌はイ・ジョンヒョンの『ワ』が原曲[16]。


横浜時代

2001年オフに自由契約となり、横浜ベイスターズへ移籍。2002年は代打を中心として起用されたが成績が振るわず、同年限りで現役を引退。10月14日の古巣・巨人戦(横浜)が引退試合となり、自身は7回裏に代打で登場。目に涙を浮かべながら入来祐作と対戦し、遊飛に終わる。試合後は故郷・秋田から駆けつけてきた両親と家族の前でチームメイトから胴上げされた[17]。


プロ引退後

引退後は実業家として飲食店などの経営を手がける。現役時代の福岡遠征時に食べたもつ鍋の味に惚れ込み[18]、博多もつ鍋のチェーン店のオーナーとなる。2007年秋には地元にも秋田店を出店[18]。


野球界では2003年に日本テレビの野球解説者を務める[19]。


2004年には西武ライオンズの二軍監督を務めたが、1年で退任[20]。2005年よりプロ野球マスターズリーグに参加[21]。


政治家として

2010年2月14日、同年夏の参議院選挙に自由民主党から秋田県選挙区に立候補する意向を示し、7月11日の参議院選挙において民主党の現職・鈴木陽悦を破り、初当選した。


2016年1月、参議院文教科学委員長に就任[22]。


2016年7月、参議院選挙にて再選される[23]。


2017年9月、参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長に就任。


2018年5月、参議院政治倫理の確立及び選挙制度に関する特別委員長に就任。


政策

憲法改正

憲法改正に賛成[24]。

憲法9条の改正に賛成[25]。

核武装について、国際情勢により検討すべき[25]。

消費税増税

2016年の公開アンケートにおいて、2017年4月に消費税率を10%に引き上げることについて「現行法に従い、引き上げるべきだ」と回答している[25]。

「消費税0%の検討」を掲げた『国民を守るための「真水100兆円」令和2年度第2次補正予算に向けた提言』に賛同している[26]。

その他

選択的夫婦別姓制度導入に反対[24]。

安全保障関連法について、改正すべき[25]。

緊急事態条項の創設に賛成[25]。

政治的公平性を欠く放送を繰り返した放送局に対し、電波停止を命じる可能性に言及した高市早苗総務相の姿は問題とは思わない[25]。

安倍政権の経済政策「アベノミクス」の恩恵は、地方や中小企業に及んでいると思う[25]。

環太平洋パートナーシップ協定に賛成[25]。

原発は日本に必要[25]。

米軍普天間基地は名護市辺野古に移設すべき[25]。

秋田におけるカジノ誘致推進[27]。

所属団体・議員連盟

自民党たばこ議員連盟[28]

自民党たばこ特別委員会(幹事)[29]

神道政治連盟国会議員懇談会

TPP交渉における国益を守り抜く会

赤字ローカル線の災害復旧等を支援する議員連盟

新しい日本型資本主義を考える会

硫黄島問題懇話会

医師養成課程から医師偏在・潜在是正を求める議員連盟

医療専門職の人財育成を考える会

栄養教諭議員連盟

栄養士議員連盟

(自由民主党)LPG対策議員連盟

(自由民主党)お祭り議員連盟

(自由民主党)卸売市場議員連盟

ガールズケイリン推進議員連盟